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日本橋 勝鬨橋 回向院
江戸前寿司発祥地
俵星玄蕃道場跡
小塚原回向院 吉良屋敷跡 勝海舟誕生の地 芥川龍之介碑  芥川龍之介誕生地 陸奥宗光屋敷跡 
深川江戸資料館 紀伊国屋
文左衛門碑
浄閑寺

栗本鋤雲居住跡
ジョン万次郎墓

永井荷風
目白不動尊

鬼子母神(雑司ヶ谷)
目黄不動尊 宮沢賢治
下宿地下宿地
野見宿襺神社  清澄庭園
見返り柳 鷲神社 汐留駅の信号機 四谷大木戸 舟番所跡(御船蔵) 芭蕉記念館 芭蕉庵跡 江戸東京博物館  平賀源内電気実験地  石川啄木
 船番所跡  樋口一葉 北斎美術館
葛飾北斎住居跡
 山岡鉄舟誕生地  山岡鉄舟屋敷跡  全生庵(山岡鉄舟寺)  両国橋  中川舟番所資料館 紀伊家上屋敷

最初は慶長九(1604)年に設けられた日本橋川に架かる橋、中山道をはじめ五街道の起点
現在の石橋は明治四十四年築



日本橋 魚河岸・高札場・獄門台
写真左から1,2,3魚河岸跡 4高札場
日本橋から江戸橋までの両側
魚河岸は大正12年関東大震災で壊滅的な被害をうけ現在の築地へ移転 
中央通りを銀座方面より来て橋を渡り右側

高札場は橋の手前左側
獄門台は橋の手前右側で以前交番がありましたが 行ったとき当地は工事中で交番も何もありませんでした
獄門台の場所に交番は何かの因縁でしょうか
古地図参照してください



場所 営団地下鉄三越前駅、日本橋三越のそば




勝閧橋・かちときのわたし
かちどきのわたし 明治38年設置、勝閧橋開通の昭和15年まで。
 昭和15年開通。


江戸前寿司発祥地
華屋与兵衛の屋台、江戸前寿司の始まり
文化文政(1830年頃)飯に酢を混ぜ生魚を載せた江戸前寿司を発案し
回向院の正門前で屋台として売り出す
それまで飯に生魚を数か月間漬け込んだ鮨に対し簡単に出来る
華屋与兵衛の鮨がミツカン酢の創業者中野又左衛門が考案した
酒粕から安価に製造できる酢とあいまって爆発的に広まる
当時は一つ4文(80円から100円)ほど
その後高価な鮨と2極化する
因みに「江戸前」の説はいろいろあるが
「3大江戸前」の鮨・そば・かば焼きから考えると
江戸の前で獲れた魚ではなく、江戸ブランドの意味が本当のようだ
そばや鰻が江戸湾でとれる訳ではないので
「腕前や男前」と同じ意味
江戸前寿司が2っづつ出てくるのは
最初大きくて食べにくかったので2っに切て出したなごり
江戸の人々はマグロは下種な魚で特にトロは畑の肥やしにもしていたとの事
貧乏侍がマグロで酒を飲んでいると「そんなに困っているのか」と言われたそうです
マグロの人気は明治以降肉食が増え脂っこい物へとこのみが変化してきたため

場所 回向院隣の「両国1」の信号を曲がりすぐの「両国幼稚園」前です
    昔は回向院正門はこちらだったようです

回向院

勧進相撲発祥地。
ねずみ小僧次郎吉の墓。
ねずみ小僧次郎吉は「鈴が森」で処刑され「千住回向院」に墓があります。ここ「回向院」にも墓があるのは?
「千住回向院」は「小塚原(こづかっぱら)」にあるので「小塚原」で処刑されたのではと思っていましたが?
ねずみ小僧次郎吉は元「トビ職」27歳のとき勘当となりその後10年間122回盗みに入り3100両以上盗む。
(当時10両盗むと死罪、今の貨幣価値にすると1両10万から15万円程ですか)
彼が盗みに入ったのは武家屋敷ばかりだったので義賊とされ庶民の喝采を受け後に講釈師により英雄化されましたが実際には盗んだ金は全てバクチや酒、女に消え貧しい庶民に施しなどしなかったようです。
武家屋敷ばかり盗みに入った理由は武家屋敷は金の場所が解りやすく被害にあってもプライドが高いので届出をせず、
お金を大事にする商人より盗みやすかった為のようです。

ちなみに
花屋与兵衛が酢めしに魚を乗せた「にぎりすし」を考案し、ここ回向院前の屋台で始めたのが「江戸前すし」の始まり。
その後、わさびを使うアイデアを加えた「松がすし」、戦国期に誕生した「笹巻けぬきすし」を「江戸三大すし」といいます。

もうひとつ因みに
寿司を一かん二かんと数えるのは寿司が当時のお金の形に似ていたから
又、2ッづつ出てくるのはその頃の寿司は大きくて食べにくいので二つに切って出したのが始まり。
屋台で始めたころの寿司は江戸前(東京湾)でその日のうちに取れた物だけ店主が勝手に握り
それを、早い者勝ちで食べたので手づかみ、醤油はどんぶりに入れておき皆で共有、
食事として食べるのは粋ではなく、小腹がすいたときに2ッ3ッつまみ暖簾で手を拭いてサット帰るのが粋。
値段も1ツ4文(だいたい100円から160円くらい)程ですので、値段といい勝手に取って食べるのといい
現在の回転寿司が江戸前寿司の原型に近いのかも知れません。
後に十両以上もする寿司と2極化していきます。


場所 「回向院」は靖国国通り(京葉造路)を両国橋渡りすぐ右。
    総武本線「両国駅」

俵星玄蕃道場跡

場所 両国国技館櫓の所

両国橋東詰

赤穂義士が吉良邸に討ち入りのあと、ここを通り隅田川沿い東側を行き永代橋近くの乳熊味噌(現ちくま味噌)で
休息、永代橋を渡り隅田川西がわを進み赤穂藩中屋敷前(現聖路加病院)を泣きながら歩き仙台藩(現日本テレビ本社)
で粥の接待を受け、泉岳寺に向かったようです
写真 下段3は両国駅前の「霧島」のちやんこやさん


小塚原回向院

大田区の「鈴が森」と「小塚原」が江戸の二大刑場。
当時の罪人の死体はこの原っぱに放り出され野犬やカラスに食われた者も多かったようです。
「解体新書」を書いた前野良沢らはこの罪人の死体を下げ渡してもらい解剖研究もしました。
又、吉田松陰の死体はここの裏口から弟子たちに下げ渡されました。

場所 南千住駅(常磐線・営団日比谷線)下車、南に30m程の吉野通り沿い(電車ガードのそば)
    ちなみに、吉野通りのガードをくぐり浅草方面に40m程にある「泪橋交差点」あたりが
    江戸時代、島送りの罪人を舟に乗せた所。


御船蔵跡

森下駅から新大橋通りを新大橋方面へ新大橋のたもと



船番所跡

場所 清洲橋から1つ目の信号を北に進んだ万年橋の北側



中川舟番所資料館

江東区大島9-1-15
都営新宿線「東大島駅」下車大島方面改札を出て左の階段を下り左へ
突き当りを右に徒歩5分ほど


芭蕉庵跡

船番所跡掲示板の脇道を入った所でかって船番所があったところに江戸に出てきた
芭蕉は住んでいました



平賀源内 電気実験の地
平賀源内は作成した武家屋敷改築図面を大工棟梁が盗んだと勘違いし
彼を切り殺してしまい伝馬町の牢内にて死亡しました

場所 清澄庭園正面より左へ(隅田川方面)進むと清洲橋にでます
    橋の手前隅田川沿いに進み読売新聞の配送ビルのところ



陸奥宗光屋敷跡

場所 清洲通り清洲橋写真1の袂 写真2倉庫の前



小林一茶住まいの地

清澄通りの「二の橋北詰」



吉良屋敷跡
赤穂浪人が吉良邸に討ち入りした後「永代橋」を渡り「泉岳寺」に行ったようです。
夜襲に向かう際、戦装束で武器を持ち47人もの団体で夜いくつもの町木戸を通れたのは
当時の将軍犬公方の綱吉が町民に最悪の評判と片手落ちの判決などの
不満が重なり多くの町木戸の番太が彼らの通過を黙認したようです。

将軍綱吉は頭もよくそんなに悪い人ではなかったようですが母親の桂昌院から
生き物を大切にとの助言で生類哀れみの令をつくり犬だけではなく蚊を殺しても
罰せられるようになり結果として庶民に大きな苦しみを与えてしまいます。
野良犬を中野お小屋に集め(現中野駅から中野区役所あたりを含む30万坪8万匹)
その費用は莫大でした。
当時は元禄の大飢饉(1695から1696年)で生類哀れみの令は庶民から大変な批判と
なった最中の討ち入りでしたので浪人となっても幕府に逆らう赤穂浪人へ庶民は
皆味方したようです
思うにいつの世も権力者は基本的に正しい事でも公使したとき結果は必ずその通りには
ならない戒めのような気がします

場所  本所松坂公園 墨田両国3-13-29
     両国小学校から回向院方向に少しいった所。 



勝海舟誕生の地

場所 靖国通り「両国3丁目」信号右に曲がりすぐの「両国公園」内(両国小学校隣)



北斎美術館

場所 清澄通りの江戸東京博物館前から北斎通りを100m程行った右側の緑町公園内にある北斎美術館
    (写真1・2枚目のところから北斎通りを100m程すすみます)

葛飾北斎旧住居跡

場所 緑1丁目交差点(写真5・4)近くの「宮内歯科」(写真3)の露地を入った所


栗本鋤雲居住跡
場所 私は「大江戸線両国駅」A1を出て左、「第1ホテル」を右折「区役所通り」左折「蔵前橋通り」手前
    墨田区石原3丁目18-1


帰りに横網公園・旧安田庭園を通って来ました(旧安田庭園で花嫁花婿さんに遭遇)


野見宿禰神社

相撲の神社

場所 清澄通りの江戸東京博物館前から北斎通りを150m程行った右側



山岡鉄舟誕生の地

幕末三舟の山岡鉄舟(高橋泥舟・勝海舟)の生誕地がここのすぐそばらしいです
    山岡鉄舟は高橋泥舟義弟 
    因みに江戸城無血開城の第1功労者は山岡鉄舟のようです
又、この辺りは津軽上屋敷の場所のようです(赤丸の所)
「本所には過ぎたるものが二つあり津軽屋敷と炭屋塩原」
講談や歌舞伎で有名な、人の模範になる塩原太助と中間や折助の無法に手を焼いていた津軽屋敷の川柳

場所 北斎美術館からさらに北斎通りを200mほど進み「亀沢4丁目」信号の一つ先の
信号を右に曲がった所の「堅川中学校」(たてかわちゅうがく)の所
   (写真1枚目の信号を北斎美術館からきて右折)
住所 墨田区亀沢4-11-15



山岡鉄舟旧宅地

山岡鉄舟の暮らしていたところは現在「高歩院」という禅宗(臨済宗)のお寺になっています
掲示板を貼っていた方に尋ねたら「山岡鉄舟が住んでいた場所が現在のお寺のところ」との事
臨終が近いころ勝海舟が見舞いに来て「臨終が近いんだってな」と言うと「いま涅槃の峠を越えるところです」と
海舟が「成仏しろよ」と言って家に帰ったら鉄舟が亡くなったとの知らせが届いていたとの話の所
山岡鉄舟は相当の酒豪で「天皇の侍従が二日酔いではまずいので晩酌は2升とするものの3升飲んでしまう」というほど
(186cmで剣と槍の達人 豪傑ですね)
結局胃癌で亡くなります

場所 山手通りと大久保通りの交差点「宮下」より大久保通りを新宿方面(南)に250mほど行くと
9枚目写真のバス停があり、さらに30mほど先の8枚目写真の路地を右折、7枚目写真の小淀公園を過ぎ
さらに狭くなった道6枚目写真の所を直進してすぐ
(小淀公園に公衆トイレあります)

全生庵(山岡鉄舟が建立した禅宗のお寺)


山岡鉄舟が幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うため明治16年建立した寺院
三遊亭円朝幕末から明治の落語家。山岡鉄舟により禅を修める(写真4・5)
住所 東京都台東区谷中5-4-7
千駄木駅から三崎坂を谷中墓地方面に進み左側
毎年8月1日から8月31日まで幽霊画展

芥川龍之介碑
芥川龍之介は明治25年3月1日東京市京橋区入船町八丁目一番地に誕生。
その年の10月に母フクが突然の発狂、母の実家で育つ(芥川家)
本所区小泉町15番地(現在の墨田区両国3丁目22番11号)

場所 芥川龍之介の碑は京葉道路を両国橋方面より本所警察署方面へ進み
    写真の横断歩道付近左側「横綱横丁」角にあります
    ここに隣接する地区が横網(よこあみちょう)ですが横丁は「よこずな横丁」です
    混乱しますので念のため
    2段目の写真は龍之介が通った「両国小学校」前の石碑
    下段写真「本所松坂町」碑は京葉道路を挟んだ横綱横丁の向かいにあります


芥川龍之介誕生の地
明治25年3月1日この地で牧場牛乳生産をしていたの新原敏三とフクの間にこの地に生まれる

場所 碑は聖路加看護大学裏 浅野家屋敷跡碑と並んでいます




深川江戸資料館
ビル内、地か1階から4階程の空間に江戸の下町当時にタイムスリップしたような錯覚におちいります
裏長屋(洗濯物が干しあり)長屋木戸、八百屋さんやお米屋さん油問屋、掘割、猪牙舟などの下町を
再現していて、なかでも船宿では靴を脱いで各家へ入ってもいいので生活観すら漂い平日誰もいない時には
江戸にいるような錯覚さえしてきます。
係りの方に質問するといろいろ教えてもらえ当時の人々が偲ばれます。
(あまりお客さんが来て雰囲気が壊れるのも困るのですが)
因みに江戸は火災が多く一度火が出ると江戸の3分の1程も焼けてしまうことも多く
家屋(特に長屋)は消失する事を前提に非常に安普請だったようです。
長屋の月の家賃は根津の九尺二間の裏長屋の記録では銀5匁(もんめ)
今のお金で大体10000円くらいと安く一日の家賃とすれば夜鳴きそばと同じくらいの16文程です
その分日々の暮らしを謳歌していたようです
江戸時代は270年もあり初期と幕末では貨幣価値も変わり又
職業や品物により価格がだいぶ違いますので現代の価格に直すのは難しいのですが
文化文政の頃でしたら大雑把な計算で1両約10万円(12万円)1文20円から25円くらいで
良いようです。
当時は世界でも例をみない完璧なリサイクル世界。現在では考えられないほど
ありとあらゆる物を循環し使いきりました。
髪の毛も「落ち毛買い」かまどの灰も、ぼろぼろの傘も買いに来ます。
例えば傘、新しい傘の中心的な生産地は今の青山で一種の傘工業団地のようでこの地だけで
傘問屋が20件程ありました。
使用して壊れると廻って来た傘修理の行商に直してもらい、修理もきかないくらい古くなると古傘買取行商に売ります。
その古傘は専門の問屋に持ち込まれ使えるところを集めて又一本の傘にして製品が出来上がり
傘の古紙は柿渋や桐渋を塗ってあり防水加工されていますから紙問屋に廻り紙合羽や肉魚の包装紙として使われます。
それでもゴミとなった残りは燃やして灰として灰問屋に集められ畑の肥料・反物や食品、酒のあく抜きなどとして売られます。
排泄物は重要な肥料で高価な値で売買され近在の農家が定期的に回収し暮れにまとめて代金を支払ってくれます。
この大循環は排泄物や傘などに限ったことではなく、全ての商品が例外ではなく地球資源は減りません。
必要なものは土と太陽の光と水の恵みだけです。
当時の生産の基本は現代のように、これでもかと言うほど大量生産し不必要に大量消費するのではなく
自然のサイクル以上には生産せず欲に目がくらんだような世界ではありません。
木材にしてもロウソクにしても魚にしても翌年又同じように取れるだけしか取りませんから資源が枯渇する心配がないのです。
ですからひとつひとつの製品の値は高いですが、それで全体が廻っていますので大きなインフレにもデフレにもならず
自然循環が100%近く守られ大気や水の汚染がなく地球資源がなくなる心配もない
270年間平和で安定した世界でもまれな穏やかな時が流れました。

当時120万都市の江戸に次ぐ90万都市のロンドンではテームズ川に汚水を垂れ流し繰り返す疫病と悪臭で
大変なことになっていました、60万都市パリはもっとひどかったようです。100年後日本も同じ事となるのですが。
同じ頃、江戸ではロンドンと同じ大都会の中を流れる隅田川は水がきれいでなければ生息しない
白魚(今の白魚とは種類が違い絶滅した)が河口から上流まで沢山取れる清流でした。(とてもおいしく人気があった)
こんな川柳が残っています「店中(たなじゅう)の尻で大家は餅をつき」長屋の糞尿を契約している近在農家から
暮れに支払われる代金で餅をつき店子中に配ります。
料金は武家、商家、長屋や地域によってもだいぶ違い十二件長屋で年間50両との記録もあり
又、農家との交渉で作物の現物支払いもあったうようですが想像よりもはるかに高価です。
(栄養分の違いで代金が違い商家はけちなので質が悪く、かえって長屋のほうがうまいものを食べ質がよかった)
店子が大家と喧嘩したとき「もう長屋で糞してやらねーぞ」などもあったとか
(糞尿が売れるのです、けちな人は外で用をたさなかったなども普通)
なんとも深刻さがない、ユーモラスな心豊かさが感じられます。

長屋木戸は暮れ四つ(夜10時)で閉まり夜遊びして遅く帰った若い人は
大家さんに小言を言われながら開けてもらいました。
(木戸については高輪大木戸跡をご覧ください)
戸や畳は個人のものでしたので引越しするときはもっていったそうです。
上段一番右の写真は長屋の一室ですがこれは長屋のなかでもかなり裕福です。
山本周五郎の小説「さぶ」で「さぶ」が戸を作って売り歩いたのはうなづけます。
当時の大家さんは現在の大家さんとは違い長屋住人の行政義務がありました。
大家さんは長屋住人の戸籍、結婚の取りまとめや訴えを管理し上役である名主がまとめ
名主は軽度の裁きもします。
長屋から重犯罪者がでると大家、名主まで連座させられる為、大家さんは住人の
住環境だけではなく人間教育に深く関与しなければなりませんので、家賃を払っていても
世間で頻繁に問題を起こし人間として問題のある住人は出てゆかせるので
社会性がない人はどこにも住めず人別(にんべつ)(戸籍)からはずされ無宿人とならざるをえません。
(当時の江戸(日本)の戸籍は殆ど完全なもので世界に例がありません。大家→名主→寺→寺社奉行が管理)
大家さんには家賃のほかに役所から手当てが出ました。(大家さんが家主とは限らない)

江戸時代の最大の特徴は
権力と富を二分し権力者(武士)には富を与えず幼い頃から儒教、仏教をたたみこみ精貧を植えつけました。
(武士は上級から下級武士までみなまづしくなる制度で幼い頃から富は悪との教育を貫き通しました)
一方非権力者には努力さえすれば富が入るように出来ています。
ですから権力と富を貴族に集中させた中世のヨーロッパのような、ごく一部の貴族の絢爛豪華な人と
大多数の極貧社会とはならず270年に渡り内戦は一度も起きなかったのです。
江戸時代の身分制度はアパルトヘイトやカースト制度とはまったく違うのです。
権力と富を二分した制度は世界でも例がなく、その素晴らしさは270年間の平和と穏やかさが物語っています。

現代人が江戸時代は身分制度に縛られ暗い時代であったかのように思わせたのは
新しく出来た明治政府が明治を美化するための方策として江戸時代はあたかも暗黒のようだったとの教育を必死にやった結果です。
そのため物欲主義が全体となり現在に至りますが、おかげで欧米の植民地にならずに済んだともいえます。
韓国は一時、商業(富)は悪との儒教を国策で全国民に強要したため国が滅びかけ、その反動が今でも残り
現在は金欲・物欲第一主義的になったとも言われます。

話はだいぶそれてきましたが
仏教では人間には八つの苦しみがあるとあります
時間とともに現れる4ッ
生・老・病・死(せいろうびょうし)
人と物、人と人との係わり合いによる4ッ
求不得苦(ぐふとっく)
愛別離苦(あいべつりく)
怨憎会苦(おんぞうえく)

五盛蘊苦(ごじょううんく)
です 求不得苦は求めど得られず いくらお金や地位が手に入っても
更なる欲に悩まされ果てがない程の意味です。
本当にだいぶ話がそれました


写真1 船宿 2 猪牙舟 3・4・5裏長屋

場所 地下鉄半蔵門線「清澄白河」駅徒歩3分
    清澄白河駅より清澄通り門前仲町方面へ最初の信号を左に折れて20m程。
    03-3630-8625 AM9:30からPM5:00
休館日 第1・4 月曜日 年末年始



江戸東京博物館

写真1・2日本橋 3 武家屋敷 4・5日本橋界隈 
場所 両国駅 両国国技館となり



紀伊国屋文左衛門の碑
清澄庭園は紀伊国屋文左衛門の屋敷だったそうです
財を誇った文左衛門は没落しその後 下総関宿藩の下屋敷となり明治に
三菱の創始者岩崎弥太郎が所有し外国人の接待用の屋敷として使い
最後は東京都に寄付したようです
紀伊国屋文左衛門が吉原で小判を撒いた話は有名ですが彼の代で没落したようです
いくらお金があってもなかなか続かないようで 世の中ままなりませんね

場所 深川江戸資料館の側



清澄庭園
紀伊国屋文左衛門の屋敷 その後文左衛門は没落し享保年間に関藩の下屋敷
その後三菱財閥に移り大正13年三菱3代目岩崎久弥が東京都に寄贈


浄閑寺
吉原の遊女が病死したときこの寺に投げ込むように運ばれたお寺。
永井荷風の碑。

場所 地下鉄日比谷線三ノ輪駅そば。
    駅前の水戸街道を千住方向、一つ目の路地を右折。




目黄不動尊 養光山金錍院永久寺


目白(豊島区)・目黒(目黒区)・目赤(駒込)・目青(世田谷太子堂)・目黄(台東区三の輪)の五不動尊
白・黒・赤・青は方角の守り黄は中央を意味します。
江戸幕府を開くとき白・黒・赤・青の四不動尊を作られ三代将軍家光の時、目黄不動尊を加え
五不動尊となる。
因みに目黄不動尊はいくつかあるようです平井にある最勝寺、昭島の眞覚寺
昭島の眞覚寺はいずれ行ってみます

場所 地下鉄日比谷線三ノ輪駅そば。
    三ノ輪駅を出て明治通りを10mほど浅草方向

平井の目黄不動尊「最勝寺」に行ってきました


住所 東京都江戸川区平井1-25-32
私は都営地下鉄新宿線の「東大島」駅よりバス(6番乗り場)で行きました
「小松川3丁目」で下車
バス進行方向と反対のローソン(14)の交差点を左に渡り(荒川方向)14号線を進み
歩道橋(13)を左折、突き当り「小松川図書館」(12)を右折「小松川高校」の先を右折
して30m程



目白不動尊
   神霊山 金乗院慈眼寺・関東三十六不動霊場第十四番
    丸橋忠弥のお墓があります。
   又、時の鐘もあります

場所 都電「学習院下」駅を降りてすぐの路地を入り踏切を越えて100m程  
    豊島区高田2-12-39

ついでに都電「早稲田」駅から「学習院下」まで乗ってレトロな雰囲気を味わいました
本当は桜の時期だと桜並木が並行していてみごとです

早稲田大学キャンバスに寄ってみました

鬼子母神(雑司ヶ谷)

都電荒川線(路面電車)鬼子母神駅前

樋口一葉
明治5年(1872)から明治29年(1896)
天才女流作家は貧乏のどん底の中わずか24歳で亡くなります、肺結核でした
生誕地は現 千代田区内幸町1-5-1「内幸町ホール」入り口脇に看板があります
終焉の地は現在の小石川1丁目
おもに小説を書いたのは本郷の菊坂の地と終焉となった小石川の地のようです


1段目の写真4枚 樋口一葉生誕地
        場所 「内幸町ホール」入り口脇 
            JR新橋駅、SL広場側東京よりに降り外堀通りを左に行き
            2ッ目信号「新橋2」を右折2ッ目の信号「内幸町ホール前」のところ
            「内幸町ホール」入り口すぐ左脇に看板がありました
2段目の写真4枚 一葉が雑貨店を営んでいた頃
        場所 台東区竜泉3丁目18番4号
            浅草の国際通り「鷲神社」を三ノ輪方面隣の「西徳寺」
            信号を右、2ッ目の路地を左には入ったあたり。
3段目の写真5枚 一葉24歳にて終焉の地
        場所 文京区小石川1丁目付近
            最寄り駅 都営三田線「春日町」
            春日町駅より白山通りを巣鴨方面に徒歩4・5分、白山通り右側「洋服のコナカ」前。
4段目の写真4枚 一葉18歳から21歳、2年11ヶ月暮らした場所
        場所 文京区本郷4丁目付近
            最寄り駅 都営三田線「春日町」
            春日町駅より言問い通り右折「菊坂下」を右折(菊水湯という銭湯の近く)
5段目の写真2枚  一葉ゆかりの質店(本郷5-9-4) 
          


宮沢賢治が大正10年に上京したとき下宿したところ

場所 一葉18歳から21歳まで暮らした(菊坂)の狭い横丁を出て菊坂を右に10m程


石川啄木 朝日新聞校正係時代の住まい跡


石川啄木の朝日新聞校正員時代 朝日新聞の帰り御徒町駅より湯島の切通を通り帰った処
場所 春日通りの「本郷3丁目交差点」と「春日交差点」の真ん中あたり
    本郷3丁目交差点から3つ目信号当たりの床屋さん


紀州藩上屋敷(現東京大学赤門)

2枚目写真は東京大学裏門

場所 本郷三丁目交差点より本郷通りを馬込方面徒歩5分


見返り柳
日本堤通り、見返り柳

場所 台東区千束4-9あたり、土手通り(日本堤通り)吉原大門交差点角(シエルガソリンスタンド前)



鷲神社(おおとり神社)
天日鷲命と日本武尊(やまとたけるのみこと)をお奉りしています。
2004年三の酉11月26日にいって来ました。
日光街道を江戸に帰る商人が鷲神社の市で「熊手はかき集めるので縁起がいい・・・」と
買って帰ったのが始まりとききます。
(気が付いたら大き目の熊手を買っていました、キット来年はいい事あるぞ・・・・)

場所 台東区千束3丁目18番7号
    浅草の国際通り沿い。言問い通り「西浅草三」の交差点から三ノ輪方面へ信号4ッ目

永井荷風墓

雑司ヶ谷霊園 解りにくいので霊園事務所で聞いたほうがいいようです


汐留駅跡の信号機
築地の竹中工務店辺りは元「備前中津藩奥平家上屋敷」奥平家の医師の前野良沢がここの場所で
解体新書の執筆をしたはずなのですがいくら探しても発見出来ませんでした。
「聖路加病院」本館南側に碑があるらしいのでいつか行ってみます。
代わりに汐留の信号機を見つけました。

汐留駅跡の信号機の場所 竹中工務店と銀座郵便局の間、新海岸通り沿い。
下段は汐留シティーにある最初の新橋駅の復元
日本で最初に新橋~横浜まで開通したときの駅舎を場所も外観も出来るだけ正確に再現したと書いてありましたので
その時の新橋駅の場所はここのようです。
明治4年5月着工、同12月完成 明治5年10月14日開通
設計者  アメリカ人R・Pブリジェンス



四谷大木戸跡

場所 新宿通りと外苑西通りとの「四谷四丁目」交差点そば。
    上記の碑は「四谷文化センター」「水道局新宿営業所」の所。
    実際には四谷四丁目交差点の真ん中あたりに「大木戸」があったらしい


ジョン万次郎墓

雑司ヶ谷霊園 解りにくいので霊園事務所で聞いたほうがいいようです






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