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お玉が池千葉道場 桃井道場(士学館) 斉藤道場 お玉が池 土方歳蔵生家 沖田総司のお墓  大岡越前屋敷跡 伝馬町大牢跡   夏目漱石生誕地・住居終焉の地

漱石墓
お岩稲荷 天龍寺時の鐘


伝馬町牢

石町時の鐘
上野寛永寺
時の鐘
上野の大仏 彰義隊のお墓
と総門跡
 浅草寺時の鐘

蔵前国技館跡
 日比谷公園

仙台藩上屋敷跡
 高田馬場跡

関孝和(関和算)
上野の黒門 愛宕神社

オランダ使節宿館
赤羽橋 フランス公使館 江戸城 鹿鳴館  将門塚 会津藩下屋敷  山鹿素行墓
石町時の鐘跡地 内藤神社

新井白石終焉地
最初の国立
衛生試験場
井伊掃部邸跡
(桜の井)

日比谷入江
円通寺時の鐘 上杉家上屋敷跡

松代藩上屋敷跡
 近藤勇試衛館

林羅山墓地
 小千葉  有島武郎旧宅跡

穴八幡神社

玄武館(お玉が池の千葉道場)北辰一刀流
坂本龍馬、清川八郎、藤堂平助、山岡鉄太郎など排出

場所 昭和通りと靖国通りとの「岩本町」交差点近く。
    この交差点に有る交番から細い道を10m程の「大妻女子高校校庭内」
    門が閉じているので残念ながら近くで見ることが出来ませんでした。 
最寄り駅 JR秋葉原駅より徒歩6分、地下鉄日比谷線岩本町駅より徒歩3分



小千葉(鍛治橋の千葉定吉道場)
千葉周作の千葉定吉が開いた道場
坂本竜馬はこの小千葉で修業したようです、塾頭にまでなりました
のちに江戸三大道場の一つ斉藤道場(練兵館)の塾頭だった桂小五郎と
3本勝負の試合をして2対1だったとか
因みに三大道場のもう一つ桃井道場(士学館)の塾頭は武市半平太です(新劇月形半平太のモデル)

場所 鍛治橋通り沿い  鍛治橋通りと外堀通りの交差点「鍛治橋」(写真1)から鍛治橋通りを
    永代橋方面に100m程進んだ「福岡銀行ビル」の斜め前に写真5・6の標識があります



お玉が池
池の畔にあった茶屋の看板娘お玉が二人の男性に思われ悩んだ末に池に
身を投げ亡くなったので哀れに思い祠をたてこの池を「お玉が池」と呼ぶように
なったそうですが、坂本龍馬が「お玉が池の千葉道場」に通った頃は
埋め立てられて名称だけ残っていたようです
兄の千葉周作(もともとの千葉道場)は鍛冶橋交差点近くにあったはずなのですが
いくら探しても碑のようなものを見つけることが出来ませんでした
どなたかご存知の方はお教え下さい

「岩本町」交差点より両国橋方面すぐの信号(角にメガネ屋看板)右折(人形町方面)30m程
玄武館とは高速道路を挟み反対側
「うな亀」という「うなぎ屋」の所



士学館(桃井道場)鏡神明智流桃井春蔵
武市半平太、岡田以蔵等々。

場所 鍛治橋通りを東京駅方面より来て、首都高速「京橋」出口の
    手前(上写真)「木挽町仲通り」を右折京橋消防署前の先100m程

最寄り駅 都営浅草線宝町駅より徒歩5分ほど


練兵館
(斉藤道場)神道無念流斉藤弥久郎
桂小五郎、高杉晋作、品川弥二郎など



場所 靖国神社南門(左から3番目の写真)を入りすぐ左側。
最寄り駅 「JR市ヶ谷駅」又は都営新宿線「市谷駅」「九段下駅」どの駅からも10分位は歩きます。


井伊掃部邸跡桜の井(井伊屋敷前にあった井戸)
井伊家の屋敷前にあった 江戸時代の名水
浮世絵にも描かれています
(浮世絵の赤い門が井伊家その前ある三連井戸と内堀)
場所 内堀の「国会前」交差点より「三宅坂」方面に10mほ


松代藩上屋敷跡(木造仮議事堂跡)
経済産業省総合庁舎別館は松代藩上屋敷跡です
因みに松代藩の中屋敷は現アメリカ大使館宿舎、下屋敷は佐久間象山砲術熟跡です
ここは1881年から1890には木造仮議事堂が建てられました
2023年10月11日に訪れ経済産業省総合庁舎の周りを周ってみましたが残念ながら
松代藩の碑などはありませんでした
あったのは写真3・4・5木造仮議事堂の看板でした


将門塚(酒井家上屋敷跡)

皇居お堀脇三井物産ビルの隣に「将門塚」があります
平安時代平将門は自分が新皇として朝廷に反逆、討死し京にさらされた首が怨念でこの地まで飛んできた
又山本周五郎の小説「樅の木は残った」で有名な原田甲斐の刃傷事件の舞台となった酒井雅楽頭の上屋敷のあった場所
場所 東京都千代田区大手町1-2-1

近藤勇の江戸での道場 試衛館(しえいかん)


外苑東通りと大久保通りの交差点(市谷柳町の信号)を外苑東通りを
四谷3丁目方面から来て右に曲がるとすぐに柳町病院があります
柳町病院の角を曲がりすぐの細い道を右に曲がった突き当たりです
又ここから徒歩15分ほど四谷3丁目方面の新宿歴史博物館もみどころ
小規模ながらいいですよ、学芸員の方がとても詳しく親切に江戸のことを
いろいろ教えてくれます

試衛館から「漱石山房記念館」までは徒歩10分ほどです
外苑東通りへもどり早稲田方面(右折)してバス停「牛込保健センター前」の
路地を左折して60mほどです(下の写真を参照)

林羅山 墓地
柳町病院 斜向かいのセブンイレブンの横を入り読売新聞販売所の先を右折して30m程



関孝和 墓(浄輪寺)

関和算 数学の天才、全国に弟子が居ました
場所 外苑東通りの「牛込弁天町」バス停です


山鹿素行 墓(宗参寺)
場所 外苑東通り「牛込保健センター」バス停、はすまえの路地突き当り
    牛込の地名の豪族牛込氏の墓所でもあります
    宗参寺を出て右の露地を5・6分歩くと「漱石山房記念館」にでます
    「漱石山房記念館」の正面露地を5・6分歩くと「夏目通り」
    その右前あたりの「三井住友銀行」原町社宅に「有島武郎旧宅跡」碑があります


夏目漱石生誕地・住居終焉の地


夏目漱石生誕地は地下鉄
「早稲田駅」のすぐそばでした
写真最上段の5枚
住所 新宿区喜久井町1
2段目写真3枚は「漱石山房記念館」へ向かう途中(徒歩7分程)
下段2枚目は「猫のお墓」
だそうです
「漱石山房記念館」出て左折
信号の所にある停留所
「牛込保健センター前」から
新宿駅が便利ですが
「近藤勇道場試衛館」は
歩いて10分程ですので是非
「近藤勇道場試衛館」案内は
この上記載しました

漱石山房記念館住所
新宿区早稲田南町7

夏目漱石墓

雑司ヶ谷霊園にありました
解りずらいので霊園管理事務所で聞いたほうがいいと思います


有島武郎旧宅跡

場所 地下鉄「早稲田」駅そばの「やよい軒」の場所が夏目漱石誕生地
    前の「夏目通り」の坂をしばらく登ると「感通寺」その先のY露地を左に5分ほどの
    「三井住友銀行」原町社宅壁に碑があります

穴八幡神社



高田馬場跡
場所 早稲田通り「西早稲田」交差点の「八幡鮨」の所
ここ以外に名残は見つかりませんでした
「西早稲田」交差点より都電方面に坂を40mほど下った
「水稲荷神社」入った所に「堀部安兵衛」の石碑がありました
水稲荷神社の所は「田安徳川家下屋敷」だったようです
水稲荷神社の裏側は素晴らしい庭園でした



土方歳三の生家
日野の土方歳三の生家に行ってきました
京王多摩モノレールの万願寺駅から2・3分ほどの所にあります
建物内は撮影禁止ですので入り口の写真だけです
開館日は第1・3日曜日の12時から16時ですので気をつけてください
電話042-581-1493



沖田総司のお墓
(専称寺)
専称寺、残念ながら境内には入れませんでしたので柵の外から撮影しました
誰もいないひっそりした所でした
沖田総司終焉の地は浅草の今戸神社と新宿大京町(今は何も残っていません)
の2説ありますが、よくわかりません
沖田総司のあるサイトをみると専称寺には決して電話しないでください
とありますのでそのつもりで
場所は地下鉄大江戸線6本木駅で降り6本木通りからテレ朝通りに入り
広尾方面に3分程歩いたファミリーマートの側
 (地下鉄六本木駅下車・徒歩8分ハイアットホテルから40mほどの左側)
写真下段小さな屋根のお墓・手前の四角いのはお墓ではなく碑
場所 六本木通りからテレ朝通りを200mほど行った左側



お岩稲荷

四谷怪談で有名なお岩さんゆかりの地
江戸の初期(忠臣蔵の事件と同世代)新宿左門町でけなげに
暮らしていた女性ですが、死後200年たった江戸後期
歌舞伎作家鶴屋南北により芝居を面白くするために、当時起こった
お岩さんと関係ないいろいろな事件を織り込み歌舞伎四谷怪談ができあがった
場所 東京メトロ丸の内線四谷3丁目駅でおり外苑東通りを信濃町駅方面に
    徒歩5分ほどの「左門町交差点」を左折、15m程にある酒屋さんを左折すると
    20m程先にあります



伝馬町牢と処刑場と時の鐘
伝馬町獄は現在の十恩公園(その周辺一帯1345坪 鎮魂碑・吉田松陰碑・時の鐘)
高野長英はここから脱獄し6年間逃亡します
伝馬町牢は慶長18年(1613)常盤橋からこの地に移される
揚座敷・揚場・大牢・女牢部屋からなり周囲を堀でめぐらす
明治8年(1875)までの218年間

時の鐘(宝永8年)は現在の日本橋本町3丁目(江戸の地名は本石町三丁目)あたりにあったのを昭和5年に
十恩公園内に移築 現存してます
石町(こくちょう)時の鐘は伝馬町囚獄がそばにあり、時の鐘で時間を確認し処刑をしたので
管理者の辻源七は時刻を遅らせて鐘を打ち「情けの鐘」と言われたそうです
江戸の初期に時を知らせる鐘は江戸城だけで江戸地域が広がるにつれ江戸城内の鐘を
石町に移しその他に、浅草(浅草寺)、上野(寛永寺)、芝(増上寺)、目白(目白不動尊)、本所入江町、深川、
市谷(市谷八幡)、赤坂(円通寺・成満寺)、新宿(四谷天龍寺)全9ケ所に時の鐘を設置したようです

写真左上2 吉田松陰時世の碑 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
下段2 石町時の鐘(情けの鐘)

場所
地下鉄小伝馬町駅出て人形町通りを20m程左側


蔵前国技館跡 浅草御蔵跡

両国国技館以前の蔵前国技館は現東京都下水局にありました(蔵前橋たもとピンク色のビル)

石町時の鐘跡地 与謝蕪村住い跡

石町時の鐘は寛永3年(1626)三代将軍徳川家光の頃、江戸城内からこの地に
移され辻源七に管理を委ねます。
石町の時の鐘は江戸城の太鼓の音にあわせ突きその音を聞いて
他の鐘は鳴らしたようです。当然時間はずれますが昔は現代と違いこまかな時間は必要ありませんでした。
又、石町だけ和時計を持っていたようです。
和時計は非常に高価で(100から200両位)したので大名やよほどの資産家ぐらいしか持っていません。
江戸は人口の増加、住宅地の拡大により石町の他に8ヶ所設置します。
石町の他、浅草(浅草寺)上野(寛永寺)、芝(増上寺)、目白(目白不動尊)、本所入江町、深川、
市谷(市谷八幡)、赤坂(円通寺・成満寺)新宿(四谷天龍寺)全9ケ所。

石町(せきちょう)時の鐘は伝馬町囚獄がそばにあり、時の鐘で時間を確認し処刑をしたので
管理者の辻源七は時刻を遅らせて鐘を打ち「情けの鐘」と言われたそうです
石町の鐘は十恩公園内に移築 現存してます(写真は伝馬町牢の欄に掲載)

江戸時代の時間の勘定の仕方は(ただし昼と夜の時間が同じ頃)
明け九つ(あけここのつ)午前0時
明け八つ(あけやつ)午前2時
明け七つ(あけななつ)午前4時
明け六つ(あけむつ)午前6時
明け五つ(あけいつつ)午前8時
明け四つ(あけよつ)午前10時
暮れ九つ(くれここのつ)午後12時
暮れ八つ(くれやつ)午後2時
暮れ七つ(くれななつ)午後4時
暮れ六つ(くれむつ)午後6時
暮れ五つ(くれいつつ)午後8時
暮れ四つ(くれよつ)午後10時
明け九つ・明け六つ・暮れ九つ・暮れ六つに突いていたようです
時間の長さは昼間は日の出から日の入りまでを6等分
夜間は日の入りから日の出までを6等分ですから
例えば夏至の昼間のいっときは だいたい2時間20分程 夜間のいっとき1時間40分程
逆に冬至の頃は夜のいっときが昼のいっときより長い
夏と冬ではいっときの長さはだいぶ違いですが
江戸時代の人はこれで事足りて、もう少し細かくは「半とき」(今の時間の1時間)
四半とき(今の時間の30分)これ以上細かくは表現しません 時間がゆったり流れた良い時代です

九つから始まるのは九は満との考えから
次は9に9をたして18、 10の位は省略して8
18に9をたして27、 10の位は省略して7というぐあい
時の鐘の周辺の家からは4文(80~100円くらいですか)徴収していました
現在の「おやつですよ」はこの名残

場所 中央通を日本橋方面より来て「室町3丁目交差点」の1本先の路地の右角


天龍寺の時の鐘


新宿区新宿4-3-19
JR新宿駅南口を出て目の前の20号線を左へ(四谷方面)
最初の信号(新宿4丁目交差点)明治通りを右20M程です
(市谷亀岡八幡宮の時の鐘は築地本願寺に移されているようです)
上野寛永寺の鬼門にたいする裏鬼門天龍寺の天龍寺の時の鐘は
「追い出しの鐘」とよばれました

内藤神社
(武峯内藤神社とうのみねないとうじんじゃ)
場所 新宿区内藤町
都営地下鉄大江戸線「国立競技場前」駅A3出口を出ると「外苑西通り」それを左へ行くと
写真7枚目新宿御苑裏門 8枚目創価学会ビル(大京町北信号)左の露地を入った先にあります
「駿馬の碑」
高遠家内藤清成が徳川家康のお鷹狩りのお供の際、家康に「馬でひと息に回っただけの土地を与える」との
命で駿馬にまたがり南は千駄ヶ谷 北は大久保 西は代々木 東は四ッ谷を駆け抜け広大な四ッ谷屋敷の
土地を拝領(現代の新宿区のルーツ)駿馬はそのまま息絶え樫の木の下に埋められる。
明治5年に現在地に(内藤神社)に移される
因みに「新宿」名の由来は
甲州街道は最初 日本橋を起点に最初の宿場は下高井戸でしたが遠かったので
後に途中地点としてつくられたのが「新宿」(新しく付け足されたので新しい宿)


新井白石終焉の地
場所 JR千駄ヶ谷駅を出て右へ 写真3枚目のEXCELSLORCAFFE角の露地を右折
ガードをくぐり写真4の新宿御苑千駄ヶ谷門を通過して150m程の「更生保護会館」の前


赤坂円通寺時の鐘と三分坂

円通寺 赤坂駅から乃木神社方面(TBSの反対方向)へ進み「赤坂5丁目交番」角を右折
突き当たり右折「三分坂」の急坂を道なり「くの字」に上りきった所がTBSの裏門です。
(三分坂 余りにも急な坂なので三分払わないと登ってくれないので)
さらに道なりに100m進み信号の手前を右折
住所 東京都港区赤坂5-2-39

上野寛永寺の時の鐘
   上野精養軒の隣です



浅草寺の時の鐘

浅草浅草寺境内にある時の鐘です
浅草寺側の旅館に泊まったら朝の6時に鐘の音がよく聞こえました
右の写真は浅草寺右側 二天門側の浅草神社です



上野の大仏

以前上野にも大仏がありました 今は顔面だけのレリーフだけが残っています
1631年(寛永6)最初漆喰の大仏が建立
1647年(正保4)地震により倒壊
1658~1661年金銅像再興
1698年(元禄11)仏殿建立
1842年(天保12)火災により損傷
1843年(天保14)再興
1855年(安政2)安政の大地震により頭部破損
1875年(明治8)上野恩賜公園整備のため仏殿撤去
1923年(大正12)関東大震災により頭部落下
1940年(昭和15)軍需金属資源として胴部を共出
            供出をのがれる為寛永寺住職が頭部を隠していた
現在は顔面だけレリーフとして旧跡に安置
最初は後輪もついていた

写真2段目4枚目が当時の仏殿 5枚目は大仏脇の精養軒


上野彰義隊の墓と総門跡
  右の2枚の写真が総門(黒門)のあった所、彰義隊の墓と精養軒(大仏)との中間。
  総門(黒門)は現在円通寺にうつされています。

黒門の敷石とおもう石(右2枚の写真)



上野の黒門

黒門とは、東叡山寛永寺の「総門」の事、上野戦争(1868年「慶応4年」5月15日)上野戦争時最激戦地。
この戦で多くの彰義隊士が戦死しました。
門があった場所は、現在の上野公園内、清水観音堂西側辺り
数多くの鉄砲の弾の跡が激戦だったことが伺えます。
後にこの黒門は円通寺に遺跡されています。

(三枚目の写真は弾の跡)

東京都荒川区南千住一丁目59番11号  円通寺
明治通りと日光街道の交差点「大関横丁」から千住方面に120mほど



愛宕神社


曲垣平九郎盛澄で有名。
桜田門外の変の浪士達がここに集合しました。
”伊勢へ七度 熊野へ三度 芝の愛宕へ月まいり”
最寄り駅、都営三田線「御成門」か都営日比谷線「神谷町」

オランダ使節宿館跡(真福寺)

安政5年(1858年)通商条約当時の使節宿館


赤羽根橋
清川八郎が佐々木只三郎に暗殺されたのはココから隣の中の橋の間。
池波正太郎の小説の舞台にもよく出てきます。


会津藩下屋敷跡(三田下屋敷)
会津藩最初の江戸屋敷
保科正之の亡くなった地
4代将軍家綱の後見を果す為会津にはほとんど帰らず
多くの改革をして江戸幕府の基礎をつくった
三井倶楽部の裏から慶応女子高、慶応中等部、ハンガリー大使館などを含む
32972坪の広大な土地
場所 国道1号線「二の橋」から三田通り方面に坂を上りオーストラリアの隣
三井倶楽部の塀に案内板あり


最初のフランス公使宿館跡

伊皿子貝塚古墳から田町方面に少しすすむ。


江戸城

左から・大手門・天守台・同心番所・百人番所・大番所とその説明。
天守閣は 三代将軍徳川家光 明暦三年(1657)の大火で焼け再建しませんでした

大岡越前屋敷跡

大岡越前屋敷跡が現在弁護士会館になっているのは何かの因縁でしょうか
吉宗は享保の幕政改革に着手
「大岡政談」などで名奉行として知られている
町奉行の仕事は現在の都庁・消防庁・警視庁を兼ねた職務

小石川養生所の設置、青木昆陽を飢饉対策に任命、町火消し制度(いろは四十八組)の設立
目安箱の設置などなど  寺社奉行にまで昇格
火消しは大名火消し・定火消し・町火消しがあり
大名火消しは浅野内匠頭が有名「浅野様が来たから もう大丈夫だ」といわれた
定火消しは幕臣が管理した幕府直轄の消防組織
定消しは現在の消防署につながり、町火消しは消防団となる
ちなみに
歌川広重は定火消しの火消し同心でしたが武家株を人に譲り浮世絵師となる
場所 地下鉄メトロ線、霞ヶ関駅B1出口を出ればそこが弁護士会館



杉家上屋敷跡
五七桐の紋は天皇家の御紋で天皇家に功労があったものに与えられました。
(両脇の花心が5ツ、中心の花心が7ツ・鳳凰が止まる木が桐の木から天皇家のご紋)
豊臣秀吉の桐紋は天皇から賜った織田信長が秀吉に許したもののようです。
(このへんチョット自信がないです)
秀吉だけではなく足利尊氏なども桐の御紋を賜っていますが
徳川家康はこれをことわったみたいです。
明治になり太政大臣が桐の御紋をつかったようです。
テレビニュースをみると総理大臣が発表する台に桐の御紋が付いています
たぶん天皇家から賜ったということではないでしょうか
今度ニュースのときにみてください。

吉良家に赤穂義士が討ち入ったとの知らせに上杉の殿様がいきり立ち吉良家に
駆けつけようとするのを家老が必死に止めたのも、この場所でしょう

上杉家上屋敷跡は現在 法務省旧館
館内三階の展示室に尊敬する江藤新平の写真もありました(無料日・祝日休館)
写真上段左から3枚目の碑は小さいので見落としがち、下段2枚目の地下鉄桜田門駅(桜田門交差点)のすぐそば

鹿鳴館

明治16年(1883)~明治20年(1887)のわずか4年間 鹿鳴館時代
国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場
欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要
があると考えた明治政府が井上馨の立案により創立
毎夜、舞踏会を開き天長節行事やバザーなども行うが「淫逸にいたる退廃的行事」として国粋主義者が非難し
反対運動に耐えず、わずか4年間で幕を閉じる

日比谷通り沿いの大和生命ビル敷地内(帝国ホテルの隣)

仙台藩芝口上屋敷表門跡

仙台藩芝口上屋敷
延宝4年(1676)からの上屋敷。
現在の日本テレビから高速1号線のところの広大な土地。

最初の仙台藩外桜田上屋敷(1601~1660)
政宗から3代綱宗までの上屋敷です
は日比谷公園心字池あたりから音楽堂あたりまで
現在の日比谷公園全体と考えていいようです。
伊達政宗終焉の地です
現在の史跡は心字池近くにあるようです

場所 汐留シティーゆりかもめ駅そばの日本テレビのビルの所

日比谷公園(仙台藩外桜田上屋敷)


国立衛生試験場 発祥の地
明治7年3月(1874年)我国、最初の国立医薬品研究機関。
昭和20年(1945年)東京大空襲で罹災するまでこの地に有り、現在は世田谷区用賀。

場所 千代田区神田和泉町2丁目。 三井記念病院より清洲橋通りへ出て右折、清洲橋通り沿い。
最寄り駅 JR秋葉原駅より徒歩5分・総武線浅草橋駅より徒歩4分。




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