玄武館(お玉が池の千葉道場)北辰一刀流
坂本龍馬、清川八郎、藤堂平助、山岡鉄太郎など排出
場所 昭和通りと靖国通りとの「岩本町」交差点近く。
この交差点に有る交番から細い道を10m程の「大妻女子高校校庭内」
門が閉じているので残念ながら近くで見ることが出来ませんでした。
最寄り駅 JR秋葉原駅より徒歩6分、地下鉄日比谷線岩本町駅より徒歩3分
小千葉(鍛治橋の千葉定吉道場)
千葉周作の千葉定吉が開いた道場
坂本竜馬はこの小千葉で修業したようです、塾頭にまでなりました
のちに江戸三大道場の一つ斉藤道場(練兵館)の塾頭だった桂小五郎と
3本勝負の試合をして2対1だったとか
因みに三大道場のもう一つ桃井道場(士学館)の塾頭は武市半平太です(新劇月形半平太のモデル)
場所 鍛治橋通り沿い 鍛治橋通りと外堀通りの交差点「鍛治橋」(写真1)から鍛治橋通りを
永代橋方面に100m程進んだ「福岡銀行ビル」の斜め前に写真5・6の標識があります
「岩本町」交差点より両国橋方面すぐの信号(角にメガネ屋看板)右折(人形町方面)30m程
玄武館とは高速道路を挟み反対側
「うな亀」という「うなぎ屋」の所
士学館(桃井道場)鏡神明智流桃井春蔵
武市半平太、岡田以蔵等々。
場所 鍛治橋通りを東京駅方面より来て、首都高速「京橋」出口の
手前(上写真)「木挽町仲通り」を右折京橋消防署前の先100m程
最寄り駅 都営浅草線宝町駅より徒歩5分ほど
練兵館(斉藤道場)神道無念流斉藤弥久郎
桂小五郎、高杉晋作、品川弥二郎など。
近藤勇の江戸での道場 試衛館(しえいかん)
外苑東通りと大久保通りの交差点(市谷柳町の信号)を外苑東通りを
四谷3丁目方面から来て右に曲がるとすぐに柳町病院があります
柳町病院の角を曲がりすぐの細い道を右に曲がった突き当たりです
又ここから徒歩15分ほど四谷3丁目方面の新宿歴史博物館もみどころ
小規模ながらいいですよ、学芸員の方がとても詳しく親切に江戸のことを
いろいろ教えてくれます
試衛館から「漱石山房記念館」までは徒歩10分ほどです
外苑東通りへもどり早稲田方面(右折)してバス停「牛込保健センター前」の
路地を左折して60mほどです(下の写真を参照)
林羅山 墓地
柳町病院 斜向かいのセブンイレブンの横を入り読売新聞販売所の先を右折して30m程
夏目漱石生誕地は地下鉄
「早稲田駅」のすぐそばでした
写真最上段の5枚
住所 新宿区喜久井町1
2段目写真3枚は「漱石山房記念館」へ向かう途中(徒歩7分程)
下段2枚目は「猫のお墓」
だそうです
「漱石山房記念館」出て左折
信号の所にある停留所
「牛込保健センター前」から
新宿駅が便利ですが
「近藤勇道場試衛館」は
歩いて10分程ですので是非
「近藤勇道場試衛館」案内は
この上記載しました
漱石山房記念館住所
新宿区早稲田南町7
夏目漱石墓
雑司ヶ谷霊園にありました
解りずらいので霊園管理事務所で聞いたほうがいいと思います
有島武郎旧宅跡
場所 地下鉄「早稲田」駅そばの「やよい軒」の場所が夏目漱石誕生地
前の「夏目通り」の坂をしばらく登ると「感通寺」その先のY露地を左に5分ほどの
「三井住友銀行」原町社宅壁に碑があります
穴八幡神社
沖田総司のお墓(専称寺)
専称寺、残念ながら境内には入れませんでしたので柵の外から撮影しました
誰もいないひっそりした所でした
沖田総司終焉の地は浅草の今戸神社と新宿大京町(今は何も残っていません)
の2説ありますが、よくわかりません
沖田総司のあるサイトをみると専称寺には決して電話しないでください
とありますのでそのつもりで
場所は地下鉄大江戸線6本木駅で降り6本木通りからテレ朝通りに入り
広尾方面に3分程歩いたファミリーマートの側
(地下鉄六本木駅下車・徒歩8分ハイアットホテルから40mほどの左側)
写真下段小さな屋根のお墓・手前の四角いのはお墓ではなく碑
場所 六本木通りからテレ朝通りを200mほど行った左側
お岩稲荷
四谷怪談で有名なお岩さんゆかりの地
江戸の初期(忠臣蔵の事件と同世代)新宿左門町でけなげに
暮らしていた女性ですが、死後200年たった江戸後期
歌舞伎作家鶴屋南北により芝居を面白くするために、当時起こった
お岩さんと関係ないいろいろな事件を織り込み歌舞伎四谷怪談ができあがった
場所 東京メトロ丸の内線四谷3丁目駅でおり外苑東通りを信濃町駅方面に
徒歩5分ほどの「左門町交差点」を左折、15m程にある酒屋さんを左折すると
20m程先にあります
伝馬町牢と処刑場と時の鐘
伝馬町獄は現在の十恩公園(その周辺一帯1345坪 鎮魂碑・吉田松陰碑・時の鐘)
高野長英はここから脱獄し6年間逃亡します
伝馬町牢は慶長18年(1613)常盤橋からこの地に移される
揚座敷・揚場・大牢・女牢部屋からなり周囲を堀でめぐらす
明治8年(1875)までの218年間
時の鐘(宝永8年)は現在の日本橋本町3丁目(江戸の地名は本石町三丁目)あたりにあったのを昭和5年に
十恩公園内に移築 現存してます
石町(こくちょう)時の鐘は伝馬町囚獄がそばにあり、時の鐘で時間を確認し処刑をしたので
管理者の辻源七は時刻を遅らせて鐘を打ち「情けの鐘」と言われたそうです
江戸の初期に時を知らせる鐘は江戸城だけで江戸地域が広がるにつれ江戸城内の鐘を
石町に移しその他に、浅草(浅草寺)、上野(寛永寺)、芝(増上寺)、目白(目白不動尊)、本所入江町、深川、
市谷(市谷八幡)、赤坂(円通寺・成満寺)、新宿(四谷天龍寺)全9ケ所に時の鐘を設置したようです
写真左上2 吉田松陰時世の碑 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
下段2 石町時の鐘(情けの鐘)
石町時の鐘跡地 与謝蕪村住い跡
浅草寺の時の鐘
浅草浅草寺境内にある時の鐘です
浅草寺側の旅館に泊まったら朝の6時に鐘の音がよく聞こえました
右の写真は浅草寺右側 二天門側の浅草神社です
上野の大仏
以前上野にも大仏がありました 今は顔面だけのレリーフだけが残っています
1631年(寛永6)最初漆喰の大仏が建立
1647年(正保4)地震により倒壊
1658~1661年金銅像再興
1698年(元禄11)仏殿建立
1842年(天保12)火災により損傷
1843年(天保14)再興
1855年(安政2)安政の大地震により頭部破損
1875年(明治8)上野恩賜公園整備のため仏殿撤去
1923年(大正12)関東大震災により頭部落下
1940年(昭和15)軍需金属資源として胴部を共出
供出をのがれる為寛永寺住職が頭部を隠していた
現在は顔面だけレリーフとして旧跡に安置
最初は後輪もついていた
写真2段目4枚目が当時の仏殿 5枚目は大仏脇の精養軒
上野彰義隊の墓と総門跡
右の2枚の写真が総門(黒門)のあった所、彰義隊の墓と精養軒(大仏)との中間。
総門(黒門)は現在円通寺にうつされています。
上野の黒門
黒門とは、東叡山寛永寺の「総門」の事、上野戦争(1868年「慶応4年」5月15日)上野戦争時最激戦地。
この戦で多くの彰義隊士が戦死しました。
門があった場所は、現在の上野公園内、清水観音堂西側辺り
数多くの鉄砲の弾の跡が激戦だったことが伺えます。
後にこの黒門は円通寺に遺跡されています。
東京都荒川区南千住一丁目59番11号 円通寺
明治通りと日光街道の交差点「大関横丁」から千住方面に120mほど
伊皿子貝塚古墳から田町方面に少しすすむ。
左から・大手門・天守台・同心番所・百人番所・大番所とその説明。
天守閣は 三代将軍徳川家光 明暦三年(1657)の大火で焼け再建しませんでした
大岡越前屋敷跡
大岡越前屋敷跡が現在弁護士会館になっているのは何かの因縁でしょうか
吉宗は享保の幕政改革に着手
「大岡政談」などで名奉行として知られている
町奉行の仕事は現在の都庁・消防庁・警視庁を兼ねた職務
目安箱の設置などなど 寺社奉行にまで昇格
火消しは大名火消し・定火消し・町火消しがあり
大名火消しは浅野内匠頭が有名「浅野様が来たから もう大丈夫だ」といわれた
定火消しは幕臣が管理した幕府直轄の消防組織
定消しは現在の消防署につながり、町火消しは消防団となる
ちなみに
歌川広重は定火消しの火消し同心でしたが武家株を人に譲り浮世絵師となる
場所 地下鉄メトロ線、霞ヶ関駅B1出口を出ればそこが弁護士会館
上杉家上屋敷跡
五七桐の紋は天皇家の御紋で天皇家に功労があったものに与えられました。
(両脇の花心が5ツ、中心の花心が7ツ・鳳凰が止まる木が桐の木から天皇家のご紋)
豊臣秀吉の桐紋は天皇から賜った織田信長が秀吉に許したもののようです。
(このへんチョット自信がないです)
秀吉だけではなく足利尊氏なども桐の御紋を賜っていますが
徳川家康はこれをことわったみたいです。
明治になり太政大臣が桐の御紋をつかったようです。
テレビニュースをみると総理大臣が発表する台に桐の御紋が付いています
たぶん天皇家から賜ったということではないでしょうか
今度ニュースのときにみてください。
吉良家に赤穂義士が討ち入ったとの知らせに上杉の殿様がいきり立ち吉良家に
駆けつけようとするのを家老が必死に止めたのも、この場所でしょう
上杉家上屋敷跡は現在 法務省旧館
館内三階の展示室に尊敬する江藤新平の写真もありました(無料日・祝日休館)
写真上段左から3枚目の碑は小さいので見落としがち、下段2枚目の地下鉄桜田門駅(桜田門交差点)のすぐそば
明治16年(1883)~明治20年(1887)のわずか4年間 鹿鳴館時代
国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場
欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要
があると考えた明治政府が井上馨の立案により創立
毎夜、舞踏会を開き天長節行事やバザーなども行うが「淫逸にいたる退廃的行事」として国粋主義者が非難し
反対運動に耐えず、わずか4年間で幕を閉じる
日比谷通り沿いの大和生命ビル敷地内(帝国ホテルの隣)
仙台藩芝口上屋敷
延宝4年(1676)からの上屋敷。
現在の日本テレビから高速1号線のところの広大な土地。
最初の仙台藩外桜田上屋敷(1601~1660)
政宗から3代綱宗までの上屋敷です
は日比谷公園心字池あたりから音楽堂あたりまで
現在の日比谷公園全体と考えていいようです。
伊達政宗終焉の地です
現在の史跡は心字池近くにあるようです
場所 汐留シティーゆりかもめ駅そばの日本テレビのビルの所
日比谷公園(仙台藩外桜田上屋敷)
国立衛生試験場 発祥の地
明治7年3月(1874年)我国、最初の国立医薬品研究機関。
昭和20年(1945年)東京大空襲で罹災するまでこの地に有り、現在は世田谷区用賀。
場所 千代田区神田和泉町2丁目。 三井記念病院より清洲橋通りへ出て右折、清洲橋通り沿い。
最寄り駅 JR秋葉原駅より徒歩5分・総武線浅草橋駅より徒歩4分。