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けっこう長いので 暇のある方はどうぞ

ドラマなどで「・・・・藩上屋敷」「北町奉行所」などと書かれた表札がありますが
うそです(江戸の頃に藩の表現はないし又全ての家に表札はありません)
殆どのテレビ時代劇はちょんまげを結った現代劇と思えばだいたい間違いないようです
(大河ドラマはかなり時代考証しています。
貨幣価値は江戸時代は約265年ですから初期と幕末では時代による変動も当然あり
又当時と同じ商品や仕事でも現代では大量生産により驚くほど安くなった物や
(例えば卵、卵は当時高級品で1ツ400円位の感覚です。
二八蕎麦や回転寿司などは現在の価格とあまり変わりません)
逆に高くなった仕事もあるため一概に現代の貨幣価値に直すのはむずかしいですが
私は総合して大雑把に1両=15万円 1文=25円と考えましたが状況により多少変えました
そばは江戸を通して16文でしたので400円 初期の江戸前寿司4文=100円です。
新撰組では誰が一番強かったのか?
これはいろいろ意見があって私としては解らないです
当時は日本中が火の玉となった時代です、しかも新撰組は戦闘の第一線ですから
現代人からみれば弱い者はいなかったと思いますし実際の戦闘では単に技量だけでなく
狂気性・度胸・威圧感それに運もあるでしょうし新撰組の仲間同士で血みどろの戦いを
したわけでもないわけで「史談会速記録」などに書いてある生き残った人の証言などですが・・・
新撰組の前身の浪士隊まで含め腕の立つ名前があがってくるのは
芹沢鴨・永倉新八・沖田総司・斉藤一・服部武雄・近藤勇・藤堂平助・吉村貫一郎
伊藤甲子太郎・土方歳三などですがここにあがってこない山南敬介でも小野派一刀流免許皆伝です
沖田総司は真剣で命がけでやったら師である近藤勇より強いといわれていて芹沢鴨を暗殺しますけど
芹沢鴨が泥酔しているところを狙いしかもだいぶ手こずったわけですし又吉村貫一郎
(北辰一刀流免許皆伝)も斉藤一と互角だった話もあります
一番は誰かで頻繁に名前が出てくるのは
永倉新八・芹沢鴨・沖田総司・斉藤一・服部武雄(順序不同)ですが狂気をもってこの人達が戦ったら
誰が生き残るか解らないのでは・・・
山南敬介と吉村貫一郎は学があり優しすぎたので狂気のところまでゆくとどうでしょうか。




江戸を好きにになったのは40年ほど以前からです。その割には薄学ですが
若い頃は司馬遼太郎の本を読む事が多かったので官軍側の人ばかり興味がありましたが
あるとき司馬遼太郎以外の著書に官軍が幕府を倒し江戸へ入った時、商家から略奪はする
女性には公然と強姦するなど、ひどいものだったとあったのでびっくりしました。
私は江戸時代は封建主義、身分制度の暗い時代 明治は自由平等、文明の夜明け 
なんとなくそんなイメージでしたがどうも違うのではないかと思いはじめました。

実際は天下を取った明治政府が自分たちを美化するため にっくき江戸幕府が行ってきた
ことのすべてを教科書検定やあらゆる事を使って悪のイメージを植えつけたのではないかと思います。
現に勝った官軍の人の中にも「こんな世を作るために多くの人が死んだのではない、
これなら江戸幕府ほうがまだよかった」といった人も大勢いたくらいです。
その代表が佐賀藩出の江藤新平でしょうか
彼は明治政府の参議、司法卿となり司法の基礎を作りますが
明治政府にさからい下野し結局、自分の作った裁判制度でわずか数日の裁判により死刑晒し首となります。
西郷隆盛、大隈重信、板垣退助、等々多くの明治高官も下野しました。
きっかけは征韓論ですが彼らの考えていた新国家(文明の夜明け)とは程遠かったのです。
文化勲章をもらった司馬遼太郎はあまりにも明治を美化しすぎと言う人もいます。
尊皇攘夷は建前で本音は関が原で負け270年間しいたげられた腹いせで
とにかく徳川幕府を「ぶっつぶしちゃえ」というところが本当のような気がします。
「おてんとうさまが西から出ても徳川様がなくなることはネー」と庶民にも
言われていましたから、官軍側も本心はまさか徳川幕府が倒れるとは思って
いなかったのに揺さぶってみたら倒れちゃった」みたいなところがあったみたいです。

公武合体
孝明天皇(明治天皇の前)と14代将軍徳川家茂(徳川慶喜の前)は公武合体で全く意見が一致していてます。
大雑把にいえば天皇を尊び中心として規律を守りそして鎖国をやめ開国して欧米の文化と産業を取り入れ植民地化を防ぐ方策。
それに対して薩長の尊皇攘夷は
王を尊び、夷を攘う(はらう)。腰抜け幕府などぶっぶして天皇を擁立し幕府が勝手に外国と結んだ条約など無視して、
武力で諸外国を日本から追い払う。
攘夷、攘夷といい日本を二分して勝って権力を握ったとたん開国ヨーロッパ崇拝 まるでペテンです。
孝明天皇は急病死となっていますが、暗殺ではないかと思います。
孝明天皇がトイレから血だらけで転げ出てきて七転八倒して死んだのです。
トイレの糞つぼに暗殺者が隠れていて下から竹槍で突き刺したようです。
本当のところはうやむやにされ解りませんが、犯人は伊藤博文だと、かげながらいわれています。
後を追うように将軍徳川家茂が20歳の若さで亡くなります。
家茂は体が弱く脚気で死んだ事になっていますが
そんなに薩長側に都合よく、公武合体派のもっともだいじで要の二人が相次いで死ぬでしょうか、しかも脚気で。
徳川慶喜が大阪から江戸へ逃げて帰らなければ徳川軍は負けなかったのでは?
との意見もありますが慶喜は頭は良かったでしょうが度胸は無かったのでしょう。
歴史に、もしもはありませんから歴史、時代の流れがそうさせたのかも知れません。
270年間戦争がなかった江戸期を終わらせ、明治政府は明治28年には早速
何百年とお世話になった韓国に戦争を仕掛けたのですから、韓国とすれば
恩を仇で返された感じは否めないでしょう。

大村益次郎が江戸を攻めるさい、勝手に錦の御旗を作り攻めてきたので徳川方は おん大将は逃げ出しているわ
錦の御旗は押し出してくるわで総崩れとなります。岩倉具視が勝手に錦の御旗を作ったのはわりと有名です。
勝手に作ろうがなんだろうが結局勝った方が勝ちです。
その後上野の山での戦いは幕府の武士と共に江戸庶民が職業ごとにグループを作り薩長側と戦い徳川方の死体の山となります。
徳川政権を倒し明治政府を作ったら官軍側は攘夷などはどこ吹く風で強引な開国。表面上はキラビヤカな
欧米諸国を手本として他国を植民地としてのっ取りに行くの為、徴兵制度を引き戦争々々ですから公武合体で無念の死を
遂げた人も尊皇攘夷で死んでいった人達にもまるでサギではないでしいょうか。
明治になってから薩長側の人が「こんな世を作るために多くの人々が死んでいったわけではない」と言った気持ちも
わかるし、まして民衆はたまったものではなかったでしょう。
勝って江戸に入ってきた官軍は商人の家に押し込んで財産を供出の名で掠奪はするは女性には強姦するは
深川で毎晩豪遊するわで大変混乱したようです。

ちなみに
何はともあれ多くの国が一緒になったのですから言葉が全然通じません。
西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城の話し合いも通訳がいたともいわれています。
私は2008年から4年間山形県の田舎町で過ごしたことがありますが、当地の60歳以上の人の話は
半分は通じません。勿論テレビやラジオなどの電化製品はありますから私の言葉はわかるようです。今でもその位です
そのため明治政府は共通語(標準語)を作ったのですがこの内には深川の芸者や太鼓持ち(男性で下劣な女芸者のような者)
の言葉もずいぶん入ったようです。官軍の士官や下士官はそこしか知らないのですから芸者や太鼓持ちの言葉が江戸弁だと
思ったようです。
例えば「~~です」は太鼓持ちの「~~でげす」から変化したもの、女言葉の「~~わ」は辰巳芸者が使う言葉。
ですから「そうですわ」となると「そうでげすわ」とうことでしょう。
もしタイムスリップして江戸へ行き「私は鈴木です。越後屋さんはどこですか」なんて聞いたらゴロツキかと思うでしょう。
「わっちきは鈴木でげす 越後屋さんはどこでげすわいな」と聞こえたでしょう。

踏み絵 宗教弾圧といわれます。
確かに宗教弾圧ではありましたが、江戸幕府はもともと宗教弾圧はないのです。
日本の宗教は神教ですが中国から入ってきた仏教はなんのわだかまりもなく受け入れ
しかも宗派の天台宗であろうが真言宗であろうが全部入信OK。
(天台宗・真言宗・浄土宗・日蓮宗・曹洞宗・臨済宗・黄檗宗・時宗その他宗OK)
キリスト教は欧米諸国の植民地化の為の第一歩である事がわかり過ぎるくらい
解っていましたので取り締まりました。
宗門改は江戸幕府が慶長17年(1612)に出されました。キリスト教以外の宗派の檀家に必ず入る事。
これは踏み絵と合わせ欧米諸国やロシアの植民地になることを防ごうとしたのです。
各寺に人別帳を作らせ寺社奉行が管理しました。
当時の全世界で日本は桁はずれに高い戸籍管理ができていました。
宗教弾圧というのであれば当時の欧米諸国の宗教弾圧はまさに虐殺です。
ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も一神教のもともと同じ神で、経典も元は同じです。
元は同じ宗教がわずかな違いだけで戦争の殺し合いを3000年もしています
魔女狩りはその一例です。(魔女狩りは女性だけではない)
キリスト教は絶対神がいて「人間は神の子として他の生物を支配することを神から許された」という事ですから、
彼らにとって黒人(有色人種)は人間ではなく動物ですから支配することを許されるのとの理屈です。
黒人だけでなく他宗教の人間も同じ理屈からすると動物と同じです。
江戸の踏み絵・宗門改は確かに宗教弾圧ですが当のヨーロッパ諸国と比べ明治政府が大宣伝をするほどの
宗教弾圧なのでしょうか、もともとの目的も規模もちがいまます。
明治政府の江戸暗躍政治論教育は多岐にわたり現在でも、かなり色濃く残っています。
これは江戸時代の心優しく穏やかでそして頭が良くユーモアーに溢れたご先祖への屈辱です。

明治政府は欧米諸国を見て廻りそのきらびやかさに心奪われたのでしょうが
当時の西洋諸国の繁栄は弱い国を略奪し植民地としてその国の全ての利益を吸い上げ
おまけに人々(有色人種)を奴隷として牛・馬以下の扱いで成り立ち、しかもその利益はほんの一握り
の王と貴族に集中させたのですから王侯貴族はキラビヤカ、当然年がら年中内乱や近隣国との戦争です。
奴隷は最初ハイチ(中央アメリカの西部諸島)から略奪してきたのが、ハイチに奴隷となる人が
底をついたとき「アフリカから連れてくればいい」と進言したのはキリスト宣教師だったとそうですから驚きます。
これを見習おうとしたのですから明治になったとたん徴兵制度ができ大事な働き手を
無理やり連れて行かれ日清戦争・日露戦争から始まり太平洋戦争までばく進したのはうなずけます。

江戸の封建主義や身分制度が全て正しいとは思いませんが
庶民にすれば 幸せとは戦争が無く世の中が平和で物価が安定してしていて
先行きの心配がなけてば、封建主義だろうが資本主義だろうがは関係ないと思います。
現在は封建主義や身分制度ではなく表看板は自由平等という事になっていますが
いつ戦争が起こってもおかしくなく、貧富の差は広がるばかりでインフラは安定せず
先行きはおもいっきり心配です。
権力と富がワンセットになっていますから、権力も富ない民衆は苦しくなるばかりです。
江戸期は身分制度は確かにありましたが実際に当時の庶民は身分制度など
まったく意識していなかったようです。そんな言葉すら知らなかったとうです。
例えば江戸の人々は祭りや花見、舟遊びなどでは趣味が同じ「連」というサークルをつくり仮装行列
だの踊りや唄だので楽しんでいました。そのサークルは武士も町人も皆一緒です。
農家の子が商人になるもの商人の子が大工になるのも自由です。
農が商より上で金持ちの商人がぼてふりの農民にへつらっているなどはありません。
平和で落ち着いた世の中であればこそ人々が貧しいながら人生を楽しむ世が出来たのです。
明治維新で封建制、身分制度がなくなり一番喜んだのは下級武士だったようです。
岩崎弥太郎(三菱創始者)・木村安兵衛(キムラヤパン)・福沢諭吉(慶応義塾)などは
下級武士でしたから時代が作り出したといえます。

江戸の識字率は驚くほど高く80%以上とも80%以上ともいいます。
文政の頃(江戸終焉の40年程前)の統計によるとロンドンの識字率は20%から25%です。
江戸では貧乏裏長屋の子でもほとんど手習いの師匠にかよっていました。
(7歳位から3~5年間くらいまで朝から午後2時ごろまで)

師匠は浪人・お坊さん・神主・未亡人などでレベルは高く、教養がある人がなり又「倒書」が出来なければ
なれません。(子供に向き合い、書き順も逆さに書く技法)倒書が出来なければ「おんぶ師匠」といい格下です。
女性の教師も全体の1/3位いて日本橋や赤坂あたりではかえって女性のほうが識字率が高かったようです。
基本の学習は読み書き、「手紙の書き方、九九、そろばん、礼儀作法など」そして大工になりたい子には数学
(数学が出来なければ大工になれませんから)商人を目指す子には簿記もおしえます。
大工ならば三角関数や円周率などくらい解らなければ図面を書くことも読むことも出来ません。
手習いの師匠は各町に2・3件(江戸全体で1500件あまり)はあったようで、それだけ需要があったわけです。
大工になりたい子はその後、棟梁に弟子入りし6年ほど無給で修行し腕が認められれば一本立ちできます。
なかにはその後、京都などのより高い棟梁に再弟子入りし又6年ほどの修行をするのも
珍しいことではないようです。
大工は当時エリートで収入も高かったようです。
商人に丁稚で入った子はそこでも読み書きそろばんのほかに教養を高めるため
礼儀や書画骨董の目利き他、多くを教育されます。
手習いの師匠も医者も許可制ではありませんから、なっても法律違反ではありませんが
レベルが低ければ、すぐに悪い評判が立ち誰もこなくなり高い教養がなければ結局成り立ちません。
(ちなみに、大阪では寺子屋・江戸は「商店の『屋』を嫌い手習い)
落語にも
「おう、熊のやつ、あのヤブ(下手な医者)のところへいったんだって、可愛そうに無事ジャーすむめー
葬式はいつごろだー」なんてなりますから・・・

塾は子供だけではなく大人の塾はありとあらゆる高級なものから義太夫・和歌俳句・発句や
屁の仕方まで ・・・ 笑ってしまうようなものまであったようです。
裏長屋の人が集まる句会でこんなのも残ってます。
「金玉の根元すずしや女房の屁」書くのもチョットはばかられますが思わずフキダシテシマイマス。

武士は各藩に藩校があり初等教育から四書五経
四書は論語・大学・中庸(ちゅうよう)・孟子
五経は易経・書経・詩経・礼経・春秋 タイトルだけで頭が痛くなりそう
吉田松蔭の初等教育は4歳から四書五経の暗読ですから・・・・
藩校は殆ど全ての藩にあって有名なところでは
幕府の昌平校(東大の前身)・今年の大河ドラマ会津の日新館・官軍となった長州の明倫館・鍋島藩の弘道館などなどです。
幕府の昌平校は全国からの留学生をうけいれました。
又江戸三大道場(千葉周作の玄武館 斉藤弥九郎の練兵館 桃井直由の士学館)が昌平校の
近くにある為ここに行けば最高レベルの文武両方とも学べるため日本中の天才・秀才が集まりました。
その為に神田に書店が沢山できました。
昌平校はまた庶民(平民)にも開放されていたそうです。
幕末当時 玄武館塾頭 坂本竜馬、練兵館塾頭 桂桂小五郎後の木戸孝允(きどこういん)、士学館塾頭武市半平太。
私塾は数え切れないほどあってハイクラスでは
蘭学塾・和算(数学)の関塾・緒方洪庵の適塾(阪大医学部の前身)・漢学塾など々。
和算の関塾などもさかんで全国に弟子がいて今の大学数学科を出たくらいでは解けないような問題も沢山あります。
70次方程式なんて物もあり解けると神社の奉納額として残っているものもあります。
(ヨーロッパから教わったものではなく和算です。
度重なる震災や戦災でだいぶ無くなりましたが今でも約2000枚の額が各地の神社にあるそうです。
蘭学塾などは蘭学塾に入る前に基本的なオランダ語の読み書きはすでに出来ていて外国の知識・文化・政治、天文、軍事
などの勉強で寝食を忘れ勉強し中には勉強のし過ぎで亡くなる人もいたくらいです。
知的レベルが高いですから武士なら必ず死ぬ前に時世の句を残します。
例えば赤穂の殿様 浅野内匠頭「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
浅野内匠頭の敵をとった大石内蔵助は「あらうれし心ははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」
庶民で面白いのは十返舎一九の(とうへんぼくのもじり)
「この世をば、どりゃお暇の線香の煙とともに灰さようなら」
こういうのを死の直前に詠むのですから驚きます。
単なる教養だけでなく自分の死も自然の一部として受け入れていたのでしょう。

驚くべき江戸のリサイクル世界

大自然の一員の人間、宇宙の摂理に従って生きる人達です。
悉有仏性(しつうぶつしょう)全ての物に神が宿る。日本には八百萬の神がいます。
小さな虫にも犬や猫にも道端の小石に、もそして人間にも
神社などでは石にも木にも、よくしめ縄が巻かれ御幣が下がっています。
全ての物は大宇宙に充満している原子から出来ていますから、もとを正せば皆同じなのです。
ただ物によって原子の組み合わせが多少違うだけです。
(チンパンジーと人間のDNAの違いはわずか5%だそうです
そしてDNAを作っている原子は皆同じ水素原子から始まっています)
江戸時代の日本人はそのことを理屈ではなく体で解っていたのです。
だからと言って何も食べないわけにいきませんから、ご飯を食べるとき
「いただきます」あなたの命を頂きますと食事のときに毎回感謝を忘れないのです。

ガラスのビンに微妙なバランスで水と土と水草と小さな魚を入れ蓋を閉め適当な日が当たる所において置くと
バクテリアが発生しそれを小魚が食べ糞をしその糞で水草が育ち酸素を作る小さなリサイクル社会を作ります。
これをミクロコスモスというのだそうです。
江戸時代は日本全国、全員でこれに近いことをしていたようです。
エネルギーは太陽の光と水だけですから資源の枯渇も環境破壊もない大自然のリサイクルです。
今でも田舎の人は山菜取りなどに行くと、来年又同じだけ山菜が出来る分しか採りません。
それと同じように江戸時代の人は全てそれを基本に生産します。
例えば紙の原料ははコウゾウで一年草です。
ほしいだけ取るのではなく来年又同じに成長できる分しか取りませんし、
炭もロウソクの原料も木も魚もすべて同じです。
太陽と水のエネルギーだけですからズーと生きられるのです。
出来た製品は徹底的に最後は土になるまでリサイクルします。

江戸の町は一日中ありとあらゆる行商が回ってきます。
行商の内容は大きく分けて3ッ
1)製品を売りに来る行商
2)修理の行商
3)買い取る行商
売りに来る行商は生活に必要な物の全てが売り声をあげてやってきます。
魚・野菜(多くの種類を用意した行商と一種類だけの専門店までいろいろ)・古着、はぎれ・塩・薬・菓子・
米、雑穀・すし(こはだずしやいなりずしなど大きめの重箱を9段くらい肩にかついで
「えー、こはだのすしー、すし」なんて・飲料水・夏は風鈴、金魚・冬は汁子、甘酒・煮しめ・盆栽やたんす。
しの他お祭り行列の順番カードなどまだまだ。
たんすはさすがに売り歩くのは重いので町の角などに置いて売っていたそうです。
台所用品・生活雑貨、おけ、ザルなど何でも 家にいるだけですみます。
修理の行商は鋳掛や・傘の修理・包丁とぎ・羅宇屋・鍵の修繕・裏長屋で普段使っている茶碗の欠けの
修理屋があったそうです、値打ちの茶碗は漆などで直すのですが、普段使っている茶碗などは白玉で張り合わせ
小さなフイゴで焼き付けるそうです。
鋳掛け屋は穴の開いたなべやヤカンを金属でふさぎ金槌で叩き小さなフイゴで焼き付けます。
羅宇屋はキセルの掃除と修理(中心の竹がラウス制なので羅宇屋)
傘の修理とか包丁の研ぎ屋などは自分にも記憶にあります(昭和23年生まれ)
江戸時代の傘のリサイクルは徹底しています。
壊れたら傘修理行商に頼むと完璧に直してくれます。
古くなり何度も修理に出してもうだめになると、それを買い取る専門の行商に売ります。
そして古い傘専門の問屋が部品の良い所だけで傘を再生して中古傘してうります。
貧乏浪人が一人で傘を作成しているのは、これのアルバイトです。
紙は丁寧にはがし、桐油の匂いも消えてますから、これをモモンジ屋(いのししの肉店)で生肉の
持ち帰りの包み紙として使います。
買い取る行商は前にも書いた古傘・紙くず・落ち毛・流れ落ちたロウ・古着・鉄くず・木屑
かまどの灰も買いに来ます
かまどの灰は毎日出ますから、かなりの量が出、需要があり専門の問屋が多くありました。
信じられないでしょうが自分が小学生の頃まで町に灰専門の灰屋さんがありました。東京ですよ
灰は今でも家のかみさんなどは竹の子のあく抜きに使っています。
昔は反物や紙の製作過程ではなくてはならなかったそうです。
酒も灘の酒問屋が間違えて酒(濁り酒)に灰を落として濁りが取れた、清酒は偶然の産物だったようです。
もっとも横綱級は糞尿です
江戸時代糞尿は近在の農家が個別に契約をして定期的に汲みにきました。
代金は個別契約ですから同じではありませんが、成人一人当たり7000円から8000円位が平均だったようです。
これは現代人には驚きですが、汲みに来る農家から支払われる代金です。
糞尿を農家が買うのです。
「正月は長屋の尻で餅をつき」などの川柳も書き残っています。
大家さんは農家からの代金で餅米を買い長屋総出、皆でわいわい餅をついて食べた。(僕も仲間に入れてほしい)
中には現金ではなく「大根50本にカボチャ30個」などとゆうのもあったようです。
街中には公衆便所(よしずで囲い内に壷がある)が有、これも農家が管理していて回収します。
農家はこれを堆肥にして田畑に還元します。
現代人からすると不衛生に見えますが。この糞尿をどうするかは大問題なのです。
その頃、文政(1830)年ごろのロンドンの糞尿問題は下水を作りテームズ川に生で流し込んでいました。
生活排水も含め糞尿を生で流し込んでいたのですから、ドブドロ状態、臭いなんてものではなかったと書かれています。
パリも同じようなもので、ルイ14世は匂いから逃げる為にベルサイユ宮殿を作ったのではとの裏話も。
日本で明暦3年の大火の時期、ロンドンでも大火事がありそれ以来木造建築が禁止され石造建築となり
地震が少ないため4・5階のアパートが並んでいましたが、用を足したのを樽に入れ下まで捨てに行くのが
面倒なので夜、窓から表に捨てたため、いつ振ってくるか解らない糞尿から女性を守る為、女性を
車道側に歩かせたとの事は当時を書いた書籍に結構出てきます。
現代では女性を車から守る為、建物側を歩かせたのに昔のロンドンでは車道側(馬車が通る)建物側を歩かせたかが
疑問でしたがやっと最近、解りました。
ですからペストやコレラの大流行は頻繁にあり、18世紀から19世紀に起こった産業革命でスモツッグは
今の北京クラス(50m先の建物が見えなかったとか)
その頃江戸では公害問題はありません。夜は江戸の真ん中で現在の霧が峰山頂より星がよく見えて
隅田川の水は飲めるほどきれい。河口から尾久あたりまで白魚が沢山取れたそうです。
(この魚は汚染に弱く水が少しでも汚れるとすぐ死んでしまうそうです)
これは当時の大都市を流れる川としては異例です。
隅田川もテームズ川も大都市を流れる殆ど同じ規模の河川です。
当時江戸は110万、ロンドン90万、パリ50万人の世界ベストスリーの大都市です。
堆肥は田畑に撒き出来た作物を人が食べ又畑へ戻す。まさにミクロコスモスです。
ちなみに堆肥の作物還元エネルギー率は160%だそうです。
対して人工肥料の還元エネルギー率はマイナス40%だそうです。
堆肥は人工肥料のなんと5倍も農地を豊かにします。
まして人工肥料を作る石油の使用量は莫大だそうです。(はっきりした数値は忘れました)
私が中学生位まで学校で定期的に回虫検査があり、よくチョコイェート型の虫下しを飲まされました。
今では回虫がお腹にいる子供なんて殆どいませんが、かわりにアレルギーの人が急増しています。
最近テレビの教育番組で知ったのですが。お腹に回虫がいるとアレルギーになりにくく、
回虫がいると癌の発生率も低いのだそうです。(まさに共存共栄だったのです)
だいぶ以前にある医学博士が「お腹に回虫がいると病気に掛かりにくいので、私はお腹に回虫を飼っています」
といったときはびっくりしました。でも本当だったのですえね・・・

江戸では考え落ちの洒落が出来なければ女性にもてなかったそうです。
いっぱい有りますのでとても書ききれませんが、面白そうなのをくつか
火事場の金時=酔って真っ赤
夕日の鬼瓦=酒が弱く、ごつい顔の酔っ払い(酔い赤黒くなる人)
石垣のウナギ=手がだせぬ
植木の庭=気が多い
うどん屋の喧嘩=蕎麦はたまらん
こんにゃくの木登り=ふるえあがる
芸者の羽織=文なし(芸者の羽織には紋なかった)
植木屋の弁当=木にかかる
黒犬のけつ=おもしろくない
白犬のけつ=おもしろい
蚕のしょんべん=くわしい
ウサギのとんぼ返り=耳が痛い
うどん屋の湯=役にたたない(蕎麦湯は飲めるけど)
月夜のカニ=身が入らない
鳥の糞=木のどく
貧乏稲荷=取り得がない(鳥居がない)
餅のない汁粉=案じるばかり
坊主の頭=ゆうことはない
赤子の行水=金たらいで 泣いている
いざりの着物=しりぬいている
あだまだきりなくありますが書ききれませんので

店の看板もはんじものが沢山 いくつか紹介します
四角い板の表に大きく「わ」裏に「ぬ」と書いて店の入り口にぶら下げてある。
(これ解りますか?)
1)お風呂やの入り口にあます
 「わいた」「ぬいた」の意味です
2)春夏冬 二升 五合
 あきない ますます はんじょう
 (一生升二つ  五合で半升)

1) 2)どちらとも 質屋
左から1)は「金になる」 2)は「三月で流れる」(上に三段、下が流れている)
3)おけや(半鐘・大風で風が吹けば桶屋がもうかる) 4)げたや 5)やきいも(9里4里うまい十三里)
6)越後屋(現 三越)商品名が大きく店名は小さく.。

写真はありませんが
①十三屋(櫛屋 9+4=13)
②十七屋(江戸時代の宅急便屋)荷を、たちまち届ける
 月見の十七夜を立待月(たちまちづき)といいます。
江戸の人は月見も人気で月見が出来る一流料亭は予約1年待ちです。
十五夜だけでなく、十六夜(いざよい)いざよう ためらうの意味・十七夜を立待月(たちまちづき)
十八夜は居待月(いまちづき、部屋で待っていると登ってくる)・十九夜は臥待月(ふしまちづき、寝そべって月の出を待つ)
もっと月の出が遅くなると更待月(ふけまちづき、夜更けにならないと出ない)
③二八蕎麦(16文) 一八蕎麦(8文) 三八蕎麦(24文)などもあります。
いろいろありますが こんなもので



江戸幕府と欧米諸国との基本政策の差
江戸幕府は官に富を与えず、民に政治参加させない代わりに富を与えたところだと思います。
欧米諸国は権力も富みも王と貴族が独占したため、民はたまったものではありません。
この事が江戸幕府は幕末に至るまで270年も内戦らしい内戦は一度も無かった基本的な理由のではないでしょうか。
当時江戸にいたイギリス人(?)が祖国への手紙で「日本は貧しいけれど、皆幸せそうな顔をしている」と書いています。
貧しいけれど戦争はまったく無く、物価の変動がほとんどなく、年齢を重ねたら時代に取り残される心配もない
心から平和な世界だった気がします。
江戸幕府は最初から一貫してこの政策を貫きました。
関が原で勝ち江戸幕府を開いたとき負けた西軍国には大きな石高を与えた代わりに政治には参加させず
勝った幕府側には大きくても西軍国の3割程以下の石高にしています。
その代わり幕府側の武士だけに政治を治めさせ武士には幼児から徹底した儒教を叩き込み
一種の清貧主義をうえつけたのです。
武士階級は徳川家は別として高級官僚から下級武士まで借金のない家はなく、経済的には相当苦しかった
ようですが、国を司りまた知識人としてのプライドと幼い時からの儒教精神で己を律するのが当たり前と思っていました。
民は官僚にこそなれませんが、自分の努力と才覚しだいで莫大な富を手に入れる事もできる可能性もありますから
当時の民は官僚になろうなどとは思わなかったのではないでしょうか。
そして民は自分が富を得ている人も貧乏侍に対して「頭だけ下げて腹の中では舌を出していればいいや」
ではなく、心から尊敬していたようです。
現代では自分の生き方や存在価値に悩んでいる人は山ほどいるでしょうが
武士でその悩みは聞いたことも読んだ事もありません。
武士の生き方 武士とは何かは単純明快で武士の2大テーマは「君に忠、親に孝」です。
一生懸命学問をし高い武術を身に付けのは殿様の役に立つ忠義と親に孝行の為です。
武士はもし誰かと諍いがおきその為に決闘でもすれば、どちらが正しくても双方切腹です。
自分の体は君(殿様)の為にあるのですから「武士の本懐は殿のお馬前に死す」「君辱めれば臣死す」です。
なぜ侍が貧しかったかは徳川幕府開闢時に決めた石高(給料)が例外は別として270年間変わらないのです。
いくら物価の変動が少ないといっても物価は少しずつでも上がっていきますし世の中もだんだん贅沢になります。
例えば江戸初期でしたら平均的な民衆でも野菜は塩茹でくらいでしたし着る物も木綿などは高級品で
麻が普通、布団も藁布団が当たり前が、味噌の味を知り綿布団に寝れば後には戻れません。
給料だけで生活できたのは最初の数十年だったようです。
いくら清貧主義といってもそれでは生活できませんから、下級武士達はアルバイトをします。
多くの武士の仕事は3日に1日くらいでしたから時間は充分にあります。
儒教の教えで商売は出来ませんから商売以外のアルバイトです。
青山は甲賀衆が住む地域でここのグループは傘の生産をしていました。
でもここは時代劇にあるような貧乏浪人が一人で侘しく傘を張っているのではなく
各パーツに分業生産をしていて、現代の工業団地のようでした。
この地域だけで傘問屋が20件あったそうです。
晴れた日には一面傘が干してあり壮観だったようです。
それ以外も各地域でありとあらゆる製品が彼らの手によって産出ました。
御徒町・下谷では 提灯作り、朝顔栽培、傘張り、金魚
代々木・千駄ヶ谷では 鈴虫、コウロギ売り、虫かご
牛込は 凧張り、お面、張子などのオモチァ
新宿大久保地域の ツツジ、盆栽。など
江戸は100万都市(幕末には約120万)大都市ですから、需要はいくらでもあったようです。
もう少し上級クラスの武士はまさかアルバイトは出来ませんから「台所預かり」にします。
上級クラスの武士は土地を与えられ百姓に農生産をしてもらっていましたので
家計が赤字でどうにもならなくなった場合その百姓に全てを任せ彼らから生活費を貰う約束です。
(百姓に給料を払う立場から貰うほうに逆転)
そのときには百姓側から生活の全てを管理されます。
主人や妻子の着物の代金や小遣いから生活費細部に至るまでことこまかに決められ、
だいたいそれまでの半分にさせられます。
それでも借金のない武家はなかったようで借金は札差からします。
武家の給料(扶持)は米です。初期の頃は米を直に貰ってそれを現金に換えていたのですが、
それでは不便なので米を本人に代わり幕府から預かり現金を各武家に渡すのが札差です。
札差とは各家の名前を書いた札を竹の竿で米俵に刺しておくので札差。
(蔵前に各藩の蔵と向かい合って札差の蔵がならんでいます)
札差は幕府から毎年、各家の給料が米の形で間違いなく入りますので、赤字の家には翌年の米を
担保に金を貸します。ですから毎年々々借金が増えいつまでたっても借金が終わりません。
ですから札差は大金持ちがおおいのですです。
しかたがないのです、銀行がないので札差以外から借りる方法がありません。
当時の江戸は金本位、大阪は銀本位そして銭の銅銭。両替商はこれらの交換や手形や小切手の発行などで
(藩札の交換もあったと思います)今の銀行と違いお金を預かっても貸し付けてもくれません。
両替商は投資先がありませんのでお金を預かり、利潤を出せませんから。

これが封建主義・身分制度だからの暗い時代だとおもえますか・・・
調べれば調べるほど自然に生き心優しい穏やかな時代だったような気がします。
身分制度で武士が町民を問答無用で切り捨てごめん、なんて270年の江戸の歴史でただの一度も
なかった事は武士の識字率100%、江戸庶民でも識字率80%の膨大な記録の中でもないようです。
江戸期の身分制度はアパルトヘイトやカースト制度とは根本から違うのです。
今の時代、よく「さむらいだの武士」だの軽くいいますが
武士は単純に2大テーマだけに生きています。
「君に忠 親の孝」(くんにちゅう しんにこう)です。いい意味での単純です
武士の本分は殿様のお役に立つためにあり、君のお役に立つ為に幼児の頃から頭から湯気が出るほど
勉強し、血を吐く程の剣術をはじめ武術百般稽古をするのです。
ですから自分の事で人と争い果し合いなどをすれば、どちらが正しくとも喧嘩両成敗で両方とも切腹です。
果し合いや脱藩などして逃亡すればお城から追っ手がかかり何年かかろうが討ち取られます。
幕末 坂本竜馬が脱藩しても追われなかったのは、藩の匿名のスパイだったのが正解のようです。
竜馬は手紙好きだったらしく現在も数多くの手紙が残っていますが当時の手紙の料金はすごく高く
藩からの工作員経費がなければ現存する手紙代金だけでもとても払える額ではなくいです。
(歩いて行くのですから)
(一番安い料金の手紙は数まとめた手紙を馬の背に振り分け人が引いてゆくのですからそれでもすごく高い)

脱藩者への追って側も逃亡者を討ち取らなければ国に帰れません。
武士は殿様のための自分ですから「武士の本分は殿のお馬前に死す」が当時の武士の常識です。
歌舞伎の仮名手本忠臣蔵という芝居のなかで
赤穂義士の一員である萱野勘平がおかると恋仲になり仲間から脱落しますが、あれは芝居の脚色で
史実では早野三平は当時 浪人は殆ど新たな藩に付けなかった(再就職は殆どなかった)のに仕官出来そうだった。
しかし仕官すれば君のあだ討ちは出来ない、仕官をすれば親に孝行ができる為
「君に忠 親の孝」の狭間で苦しみ自害をしてしまいます。
(芝居では実名をもじって早野三平を萱野勘平、大石内蔵助は大星由良助、大石力は大星力弥)
武士は儒教(朱子学)が幼い頃から染み付いているのです。
寺田屋事件も幕末、薩摩藩の過激武士数名が脱藩し寺田屋に集結したのを薩摩藩の追っ手が切り込んだ事件。
又、武士は夜必ず自宅にいなければいけません、たとえ近所でも外泊できません。
公務以外は旅行もできません。
それに対し庶民はお伊勢参り、大山参り、富士山信仰登山など信仰の名目ならばすぐに問題なく手形がでます。
でも実際は観光旅行なのです。
「東海道五十三次」も旅のガイドブックです。
当時の旅行はお金がかかるので長屋の連中は「講」をつくり順番に旅行に行きます。
文政13年(1830)伊勢の式年遷宮には全国から500万人訪れた記録には驚きます。
旅の途中で賊に襲われたり宿で泥棒にあう事はありません。
お名前は忘れましたがある僧が10年ちかく全国を旅して歩き一度も賊や泥棒にあわなかったとあります。
旅に出るときは町人でも刀(道中差し)を腰にさせますがあれは賊の為ではなく狼、いのしし、熊などの対策です。
明治後 郵便局配達員は拳銃を所持していたのは猪や狼対策です。
江戸庶民はお祭り・桜の花見・梅、ツツジの花見・紅葉狩り・雪の日はわざわざ舟を出して雪見・虫聞きの会
(コウロギや鈴虫、松虫など、ござをひき料理酒を楽しみながら詩をよむ(鈴虫は飛鳥山・松虫は道灌山がメッカ)
十五夜の月見は 月見の出きるいい店は一年も前に予約が必要。
何かにつけ気の会う仲間や趣味の会の連中ででかけるのです。

つまらないことで
最近「そばはズズーズとすするのが本当」とテレビで外国人に教えていますが
日本でもあまり音を立ててすするのは下品です。
基本的なマナーは文化が違ってもそんなには変わらないのです。
そばはB級食品ですから目くじらを立てる程でもありませんし
欧米のスパゲッティーを食べるほど、静かに食べなくてもいいのですが
「べちゃべちゃズルズル」大きな音を立てて食べればどこの国でも廻りの人に不愉快なのは決まっています。
あれほどテレビでしょっちゅう言っていると、さすがに「いいかげんにしろと言いたくなります」
ときどき教わった外国人がいやな顔をしています。
そばを大きな音で「ズルズルー」と食べるのは
テレビが普及する以前のラジオの時代、ラジオ放送の落語のとき、そばを食べるシーンを極端に
「ズルズルペチヤペチャ」とやった時からです。(落語の時そば など)
これも文化といえば文化なのでしょうか。
どこの国でも廻りに不愉快な思いをさせる食べ方は人間の行為ではありません。
ちなみに蕎麦通はつゆを少ししか付けないのは、関東のそばつゆが単に濃いからだけではなく
あまり「ズズズー」と吸い込まなくするためです。
いずれ蕎麦屋はうるさくって仕方なくなりそうです。
ついでに
二八蕎麦は小麦粉2そば粉8の蕎麦が定説ですが、本当は値段の表記では2×8=16文
他に、一八蕎麦(8文)・二六蕎麦(12文)・三八蕎麦(24文)などもあります。本当の所は解りません
江戸の庶民はトンチをきかせた洒落が大好きですからお店にはいろいろな面白い名前があります
立待月(たちまちづき)の十七夜をもじり「十七屋」(じゅうしちや) 宅急便で「たちまち着く」の洒落
櫛屋の櫛は苦死を連想して縁起がわるいので「十三屋」
こんなのもいっぱいあります。

私事で恐縮ですが
私の亡くなった父が言ってました
「自分が若い頃は人様の為に勉強しろが世間の常識だったのが
いつの間にか自分の為に勉強しろが常識になった頃から世の中おかしくなってきた」と
母親は
「昔は人のことを人様といったのに今は他人と言うのはどうかネー」と
このことが今と昔の違いでしょうか。
昔聞いたのが「幸と災難は姉妹だから、良いことの後に必ず悪いことが付いてくるからから気を付けなさい」
とききました。
仏教では宇宙全てのものは平等で、あらゆる物に仏生があると説いています。
人間だけが偉い訳ではないと解きます(悉有仏生 ひつうぶつしょう)
諸法従本来常時寂滅相(しょほう じゅうほんらい じょうじ じゃくめつそう)
宇宙全ての法はいつもその時の相が出ている。ほどの意味でしょうか。
宇宙は浄と不浄が平等で 右手が浄、左手を不浄として手を合わせます。
「仏教と宇宙物理学両方ををきわめると同じ事をいっている」と昔何かの本で読みましたが。
宇宙物理学の「初心者本」などを読むと、これみんな仏教の本に書いてあるなーと思います。
最近ようやっと少しだけ解ってきた気がします。
大金持ちが沢山出てくればそれに見合う量の貧乏人がでますし
便利さやうまいものばかりを追うと、そのしっぺ返しは取り返しのつかないものとなります。
超異常気象や政治の乱れはに、その相が出ているのでしょう。
我々の先祖である江戸の人の人々のように自然の流れの中に生き自然宇宙と共に生きる事を学んではと思います。
最近のテレビでは朝から晩まで美食(うまい物)の番組ばかりで空恐ろしさを感じます。
大石内蔵助は敵討ちをはたし、細川家に「本当の武士だ、侍の鏡だ」と毎晩豪華な料理でもてはやされたとき
「このようなご馳走ばかり食べていると人間が駄目になるので、黒飯(玄米)と いわいにしてくれ」といったそうです。
たまにはうまい物やほどほどの便利さも良いですが、すべてほどにして
少しは他も思わないと ひょっとすると人類は終わるかもしれません。
その事が全ての相に出ていることに早く気づきたいものです。
まだまだ書き足りないのですが、気づいたらこんなに長くなってしまいました。
(又書き足すかもしれません)

お疲れ様でした ありがとうごだいました

TPO




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