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乃木希典邸

東郷平八郎墓
高野長英
終焉の地
勝海舟
屋敷跡
伝通院
徳川慶喜終焉の地

萩の舎
南町奉行所跡

織田有楽斎

ターヘル・アナトミア
翻訳の地
・慶応大学発祥地
一ツ橋屋敷跡

市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮
与謝野鉄幹・晶子住まい跡地 

二葉亭四迷

帯坂
豪徳寺  長崎屋跡
 
近藤勇
終焉の地
五鉄跡 

目赤不動尊
ニコライ堂

小栗上野介生誕地
湯島聖堂

水道橋の碑
神田明神 長谷川平蔵
遠山金四郎屋敷跡
北町奉行所 まよい子のしるべ
一石橋
与謝蕪村跡
世田谷代官所
大山道標
 松陰神社
(世田谷)


目青不動尊
十軒店 蛎殻銀座 
小林一茶
住まい跡
 

緒方洪庵
旧 高橋是清邸 和歌山藩
屋敷跡
大久保利通暗殺の地 堀部安兵衛道場跡  谷崎潤一郎
生誕地
 西郷隆盛屋敷跡  湯島天満宮  赤坂氷川神社  南部坂 三浦按針住居跡  明治大学
発祥地


乃木希典邸
真中の写真(レンガ造り)は「屋敷より馬小屋の方が立派」といわれた馬小屋。
ステッセル将軍から送られた名馬「寿」が入っていたのでしょう。

場所 営団千代田線乃木坂駅より徒歩2分 外苑東通り「乃木坂陸橋」近く


東郷平八郎墓

雑司ヶ谷霊園 解りにくいので管理事務所で聞くことをおすすめします
ほかにも多くの著名人、有名人のお墓があります



高野長英終焉の地・善光寺
高野長英
文化元年(1804)陸奥国水沢に生まれる。
医師である母方(高野家)へ養子に出る。
シーボルトに師事し蘭方医学を学び又、蘭語外国語西洋事情にも精通した長英は鎖国非難の書「夢物語」書く。
これが老中「水野忠邦」の逆鱗に触れ蘭学者をめのかたきとする目付「鳥居耀蔵」により捕らえられ
永牢(終身刑)を言い渡され小伝馬町に投獄される。(蛮社の獄)
江戸時代の牢屋は環境が悪く病没するか、同部屋の入牢者に殺されるなどで一年以上生きるのが難しい。
そのなかで長英は5年間生き延び日本の将来を思い脱獄を実行する。
(外国の本を正確に翻訳できる人が殆んどいない為の使命感)
脱獄が成功したのは江戸時代とうして2人だけという。
当時の犯人検挙率は非常に高く殆んどが3日以内で逮捕されるなか全国にいる弟子と長英の
非凡な能力を惜しむ多くの人々に匿われ長英は6年に及ぶ苦難の逃避行を続ける。
最終的には江戸に帰り硫酸で顔を焼き青山百人町の寂しい所で隠れながら町医をするが発覚。
嘉永3年(1850)10月夜、大勢の捕方に踏み込まれ捕方の(捕方のプライド)恨みにより殴り殺される。
当時犯人は「生け捕り」にしなければいけないところ殺してしまった為「捕方に切り付け、自害した」と
報告したらしい。
現在「Spiralビル」の地が隠れながら町医者をし捕えられ撲殺された場所、質屋伊勢屋の離れ家。
慶応3年(1867年)江戸城無血開城、徳川幕府が崩壊しますので長英があと十数年間隠れ通せたら、維新の英雄として
明治政府に迎えられ政治の中心に参加していたかも知れません。

写真左から4番目高野終焉の地、1番目高野長英碑拡大、2番目が善光寺内の高野長英石碑、3番目は善光寺

場所 青山通り「表参道」と「「青山5丁目」交差点の間「Spiralビル」(写真参照)柱の内に石碑あり。
    最寄り駅 地下鉄千代田線・半蔵門線・銀座線「表参道駅」




高橋是清翁公園

1936年2月26日陸軍青年将校が起こしたクーデターにより高橋是清(当時大蔵大臣)この地で暗殺される
土地は東京都に寄贈され公園となり、建物は小金井公園内の江戸東京たてもの園に移築されています
写真は高橋是清翁公園内

場所 国道246号線「青山一丁目」交差点から赤坂方面に250mほど進んだカナダ大使館のとなり




紀伊和歌山藩屋敷跡

グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)

写真2枚目は弁慶橋から写しました
場所 赤坂交差点となり



大久保利通暗殺の地

大久保翁はここ現在「清水谷公園」前で暗殺されました
3枚目写真は江戸時代の水道管

場所 5枚目地図写真参照してください 


二葉亭四迷居住跡

場所 JR四ッ谷駅の新宿通りを新宿方面に20m程の「佃煮有明屋」角を入り20m程の「四谷中学校」裏
    (植込みの陰で見つけにくいです)


与謝野鉄幹・晶子住まい跡

与謝野鉄幹と晶子が暮らしたところ
場所 JR渋谷駅から道玄坂を上って「道玄坂上交番」交差点の左側MARK CITY入り口わき

場所 靖国神社近く「逓信病院人間ドック管理棟」入り口前
私が見つけたのは渋谷と千代田区です
関東大震災後は現在の南荻窪に移りそこが終焉の地となったようです
(4枚目写真は「日本赤十字社発祥地」逓信病院にあり)
他に千代田区四番町9番地にも四年間暮らした場所があるようです

与謝野鉄幹晶子住跡は「麹町文人通り」にもありました
「麹町文人通り」は新宿通りJR四ッ谷駅の近くから旧日本テレビ方向に繋がっています
与謝野鉄幹晶子住跡は「武蔵野大学付属千代田高等学校」横にありました
千代田区四番町9-2


帯坂

帯坂は番町皿屋敷のお菊さん由来の坂
JR市ヶ谷駅を出て靖国通りを30mほど靖国神社方面に進んだ一方通行の出口の道


市ヶ谷亀ヶ岡八幡宮(市ヶ谷の時の鐘)

時の鐘があった所
現在は鐘も碑もありません、鐘はたしか築地本願寺に移されたと記憶しています
場所JR市ヶ谷駅を出て外堀を渡り左へ(防衛省方面)30mほど進んだ右側




目青不動尊(最勝寺、教学院)

三軒茶屋駅世田谷通りからキャロット(茶色の高層ビル)の右側の通りを進むと「ヨーカ堂」があります。
さらにまっすぐ進み「駐輪場とケーキ屋さんの所を左折30m先の突き当たり
場所 世田谷区太子堂4-15-1

大山道標
三軒茶屋駅前246号線と世田谷通りのY字路の「BICECHO」の前です
写真4.・5は交番の前です



松陰神社(世田谷区)

吉田松陰の墓所と山口県萩の松下村塾と原寸大のレプリカがあります
場所 世田谷通りの「松陰神社入口」の信号(8枚目写真)から参道です
    途中東急世田谷線「松陰神社前駅」(9枚目写真)の線路をわたるとすぐです


世田谷代官所跡
彦根藩井伊家の領地20村の代官
世田谷の殆どは彦根藩井伊家の江戸屋敷賄領
(江原郡の世田谷、弦巻、用賀、瀬田、上野毛、下野毛、小山、多摩群、
八幡山、大蔵、鎌田、岡本、岩戸、和泉、緒方など)
井伊家の豪徳寺もこの近くにあります
旧大山通のため三軒茶屋にあった「大山道標」は
ここ代官屋敷の敷地にも「大山碑」

場所 世田谷線上町駅近く
私はバス停留所の上町から歩きました(徒歩5分ほど)
停留所近くの路地から「ぼろいち通り」(旧大山通)へ出てすぐです




豪徳寺(井伊家の菩提寺、井伊大老の墓石)

井伊家の菩提寺 井伊大老の墓(井伊家歴代の藩主の墓)
招き猫発祥の地 ある日井伊家の殿様行列がここ豪徳寺前をと通りかかるり山門で猫が招くのを見て
休憩をとることにしたら急な豪雨がきて休憩を取ったことが幸いした事が招き猫の始まり
場所 東急世田谷線の「宮の坂」駅か「上町」駅から徒歩7分ほど
(井伊大老の墓石写真ははうまく撮れていませんでした)



勝 海舟 屋敷跡

赤坂には勝が居住していましたが三箇所あります
又この場所は元禄まで浅野家の下屋敷だった場所。

場所 東京都港区赤坂6丁目10番39号
    地下鉄営団千代田線「赤坂駅」下車徒歩3分「ホテルニュー赤坂」斜め前
    (5丁目交番でホテルニュー赤坂を聞けば解ります)


ここも勝海舟屋敷跡(現港区立赤坂子ども中高生プラザ)港区赤坂6-6


赤坂氷川神社(浅野土佐守邸跡)討ち入り後瑶泉院が預けられた場所


南部坂(雪の別れ)

写真2はアメリカ大使館職員宿舎 写真1の料理やとの間の狭い道の奥




伝通院
徳川家康生母於大の菩提寺。
清川八郎の墓。
清川八郎は新撰組の前身、浪士隊を構想、募集し伝通院から京都へ出発した。(?違っていたら教えて下さい)
羽前(山形県)庄屋の生まれ妻 お連
北辰一刀流(千葉道場)大目録。
学問は昌平黌(しょうへいこう)にまで入る天才。(とてもおしゃれだったらしい)
又、新国劇の「月形半平太」のモデルになった人。
文久3年4月13日夜四つ過ぎ(11時頃)佐々木唯三郎により麻布「一の橋」で闇討ちとなる。
清川八郎は頭が良過ぎたのでしょう「策に走りすぎた」と云われます。
余談ですが月形半平太の名前の由来は
新国劇「沢田正二郎」の為に座付作者「行友李風」が書き下ろし、大正8年に京都の明治座初演で大当たりをとる。
名前は黒田藩「月形洗蔵」と土佐勤皇党首領「武市半平太」から モデルは「清川八郎」といわれています。
武市半平太は桃井道場の塾頭を勤めた土佐藩士。
またまた余談ですが
「武市半平太」は坂本龍馬のあにき格で士学館(桃井道場)塾頭。
「坂本龍馬」は玄武館(千葉道場)塾頭。
「桂小五郎」は錬兵館(斉藤道場)塾頭。

場所 メトロ丸の内線「後楽園駅」より春日通りへ出、春日通りを左へ(上り坂大塚方面)へ300m程



徳川慶喜終焉の地

住所 文京区春日2-8-9
国際仏教学大学院大学キャンパスになっていました
大学の柵の間から碑が見えました丸の内線線路の脇でした
春日通りの「東京学芸大学付属中学校」の春日通りの反対側に「Hsndmade店」(近くにミニストップあります)
脇の路地の入り下り坂を100mほど下った右側
(バス停は春日2丁目)


萩の舎跡

場所 文京区春日1-9-31
安藤坂の中程の「区立3中」前。「萩の舎」
樋口一葉が14歳で入門し、18歳で内弟子になった
樋口一葉は萩の舎に下宿していたこともあったと
書いてありました


南町奉行所跡明治大学発祥の地織田有楽斎屋敷跡(おだ うらくさい)
写真左から1・2は南町奉行所跡の標識。
3・4は明治大学発祥の地、5・6は織田有楽斎屋敷跡の標識
「有楽町」地名のおこり。
戦国時代に活躍した織田信長の弟、織田有楽斎(長益)に由来
関が原の戦で徳川家康側に属した織田有楽斎が数寄屋橋御門周辺に屋敷を拝領しその後の屋敷跡が有楽原と呼ばれた
そして明治時代に「有楽町」と名付けられた

又 吉村昭著 長英逃亡で有名な高野長英は嘉永3年(1850)10月20日深夜、青山百人町で捕らえられ
重症の為、籠でこの南町奉行所へ運ばれるがすでに死亡していた
高野長英についてはこのページ上から2番目に書いておきました

因みにテレビ時代劇などで「北町奉行所」などと書いた表札がありますがあれは嘘です
当時は役所も民家も表札はありません
ただ商家では「米屋とか油屋」など商い内容が大きく書かれた看板があり
商店名は小さく書かれていました

町奉行所は役職名からきた名称で本当は御番所(ごばんしょ)
時代劇テレビで言っている番所は自身番所や辻番所です。
御番所は現在の都庁・警視庁・地方裁判所・地方検察庁・消防団をあわせもつ仕事で
町奉行2名、与力25騎(北・南合わせ50名)同心120名(北・南合わせ240名)
内 警察捜査にあたる同心はわずか北・南奉行所に各14名(北・南合わせ28名)
定廻り同心 6名
臨時廻り同心 定廻りを長年やってきたベテラン 6名
隠密廻り同心 臨時廻りを勤め上げ中から抜擢(犯人逮捕はしない情報官) 2名
たったこれだけの人員で現在とは比較にならない成果を挙げていました。
だいたい3日以内に検挙、検挙率100%に近かったようです。
同心は頭が良く現実の江戸の街に精通していなければ勤まらないので世襲制ではありません。
特に武家は世襲制なのに奉行職・同心は例外で世襲制ではありませんでした。
特に同心は誰にでも出来る仕事ではないので自分の倅を10代くらいから教育し又、
倅自身も学問・武道に励み代々続いたようです。
犯罪は現在や当時の外国(ロンドンやパリ)と比べても桁外れに少なかったようで
殺人事件などは年に1件あるかないか程、脱獄は270年間で2件(長英は脱獄した)
ですから大きな事件があると何年も語り草となります。

もちろんいくら優秀でも、たったこれだけの人員では54万の庶民に対処出来ませんから
同心はポケットマネーで「御用聞き」(岡っ引き)を使っていました。
御用聞きは同心に犯罪を見逃してもらった者が同心の為に捜査をしますが、それだけでは
生活できませんから、たいがい御用とやくざの二足のわらじか みさんに商売をさせていました。
テレビ時代劇の「御用聞き」の本職はやくざです。
ちなみに「岡っ引き」は「御用聞き」の悪口で本人に「岡っ引き」などと言ったらたぶん殴られるでしょう。
「岡」は軽いというほどの意味でしょうか(おかぼれや岡場所など良い意味には使わない)
「引き」は横に引っ張る。

そのほかに「自身番所」「辻番」「木戸番」がありました。
「自身番所」は民間組織で地主が2名分、表店が2名、街全体で1名の経費を出し合い
常時5名が詰めていて「番太」といいます。
木戸の横にあり、警察・消防団・町内の世話役などで警察の下部組織のような役割で
同心が定期的に廻ってきて「かわりはねーか」と声をかけます。
「自身番所」には火の見櫓半鐘が屋根の上にあり、内に まとい、火消しの道具(鳶口)や
犯罪者を取り押さえる、さすまたやつく棒 取り縄などがあり普段は集会所などに使っていました。
「木戸番」は自身番の向かいにあり自身番の管理下で木戸の開け閉めや必要があれば
番太の手助けをします。(木戸は明け六つに開け暮れ四つに閉めます)
「辻番」は武家が経費を出し武家街の角などにありました。(こちらの方が怖かったようです)
自身番や辻番の手に余る犯罪者は「大番屋」へ輸送されます。

現代では事件がありすぎて重大事件でも1週間もたてば話題にもなりませんけが
江戸の犯罪は非常に低く民家に鍵じたいがなく、寝るときには内側から心張り棒くらいはしました。
鍵はせいぜい大店の蔵と銭函くらいです

検挙率は非常に高くほとんど100%に近かったようで事件後3日のうちにだいたいは検挙したといいます
120万人都市のうち町民54万人を管轄する激務の為、町奉行は就任中の死亡率が高かったようです
北町奉行では遠山金四郎、南町奉行では大岡越前が有名。
同心、力士、火消は江戸の三男と言われ人気がありもてました。

町人の揉め事は家主・名主が裁いていました
(町年寄り3名、名主2から20ぐらいの町内に1名、その下に家主)
家主は必ずしも長屋の持ち主ではなく長屋の管理をしていた者も家主
しかし訴えがあった場合には着物一枚盗難事件でも与力や最高長官の町奉行が裁き
奉行が「入牢申し付ける」と言わない限り入牢させられない。

テレビ時代劇はまったくの髷を結った現代劇と思えばいいでしょう例えば
①隠密同心が武士を相手に大暴れなどもありません
 隠密同心は町奉行の配下ですから武家や武士に対する捜査権はありません
 現在に置き換えれば、平の警察官がアメリカ大使館に押しかけて大暴れするより不思議
 大使館に日本の警察は捜査権がありませんから
古典落語の「居残り佐平次」 悪党がすごむ台詞で
「がきの頃から手癖が悪く 碁打ちといって寺々へ」というのがありますが
寺社、武家(武士も)は寺社奉行の管轄で町奉行は管轄外の為、一部の悪い寺男が
夜、寺院内で客を集め博打を打っていたため
②入れ墨は犯罪を犯した者の左腕に輪に入れる(入れ墨者=犯罪者)
国や時代によって額に入れる国も多かったようです
(例えば額に悪とか×とか犬とかあったようです)
  背中や腕に絵を入れるのは 彫り物(ほりもの)
  昔のテレビ時代劇はまだ北町奉行の遠山金四郎がもろ肌を脱ぎ
  「この桜吹雪のほりものが目にはいらねーか」と見栄をきりますが
  最近ではとうとう「この桜吹雪のいれずみが目にはいらねーか」ですから
  町奉行の遠山金四郎は前科者か・・・?
  刑は重く軽犯罪は叩き(50たたきなど)
  窃盗10両以上打ち首 凶悪の場合は はりつけ 
  すりは4回目で死刑
  放火は小火でも火あぶり
  交通事故(荷車や馬など)死亡事故 死刑
  ですから荷車の前に2人程人を退ける人がついた
  武士の刑はさらに重く軽犯は蟄居あるいは切腹 財産没収家族は江戸ところ払い(江戸から追放)
  重刑の場合は打ち首、財産没収家族は江戸ところ払い 武士に入れ墨(入れ墨者=犯罪者)はありません。

町火消は享保3年(1718)8代将軍吉宗が南町奉行大岡越前に命じ
いろは48から「へ」「ら」「ひ」「ん」を除き、「百」「千」「万」「本」を加へ48組を編成。
まとい持ちは若くてイケメンでイサミハダの花形で火元の一番危ない所でまといを振ります。
当時の火消しは火を広げない為の打ちこわしで建物の構造が解っていないと使えないため
大工・鳶が多かったようです。
竜吐水(りゅうどすい)は火を消すよりも、主に火消し(特にまとい持)を守る為に彼らに掛けたようです。
(まとい持ちを焼け殺さすナー)てなぐあい。
火消しの頭は播随院長兵衛や新門辰五郎が有名、職業は「くちいれや」が多かったようです。。
町火消のほかに武家火消(旗本の定火消、大名の大名火消)
大名火消では浅野内匠頭が有名 「浅野様がきたからもう大丈夫だ」と云われました。
明治以降「武家火消」が消防署、「町火消」が消防団となります

芝神明宮での相撲興行中に起こった「め組の喧嘩」で有名な「め組」火消しの管轄は
桜田久保町、兼房町、二葉町、源助町、露月町、神明町、増上寺中門前辺、浜松町、芝口辺
文化二年二月(1805年)に起きた町火消し「め組」と江戸相撲の力士たちの喧嘩騒動
江戸っ子らしく又寺社奉行・町奉行・勘定奉行の裁きも粋だねー

私の亡くなった父親は大正元年生まれで実際の火事でのまといかどうか解りませんが
「俺の子供の頃のまといはそれはすごい迫力で、肩の後ろから纏を振るとビシー・ビシーと
大きな音で怖いようだった」とよくいっていました。

江戸三男(同心・火消し・力士はとてももてたようです)
纏持ちは暗闇の中、紅蓮の炎と火の粉が飛び交う屋根上で見事な彫り物を入れ
ピンク色に染まる身体が炎に照らされ命がけでを振るう姿は恐ろしいような
美しさだったようです
纏持ちは人柄もきっぷも度胸もよく、組一番のいけめんでなければなれません)

4枚はJR有楽町駅前開発以前の写真↓

  

場所 2007年10月JR有楽町駅中央口は丁度南町奉行所跡あたりが開発で大きく変わり
行ってみましたら上の写真(3枚)のようになっていました
南町奉行所跡の敷地はたぶんJR有楽町駅と交通公社ビル、丸井、マリオンの一部
を合せたところだと思います。
上の写真のように変わり南町奉行所跡のプレートは2枚目写真の壁面にありました

織田有楽斎屋敷跡の標識は有楽町マリオン飾り時計前
明治大学発祥の地は有楽町マリオンの正面、内堀通りの向かい側
写真左から北町奉行所の場所、南町奉行所の場所、与力、同心




北町奉行所






東京駅八重洲北口改札を出てすぐ左折12m程大丸百貨店脇にあります

古地図と現在の地図を重ねあわすと北町奉行所は大丸百貨店でした
東京駅八重洲北口改札はすでに北町奉行所だと思います
因みに北町奉行所の取り縄は白、南町奉行所は紺です

写真左上から
上段1、2,3,4,5北町奉行所  下段1,貨幣博物館 2、日本銀行 4、十恩公園内時の鐘



まよい子のしるべ一石橋


安政4年(1857年)の告知板(一石橋の脇)
柱の正面には「満よひ子の志るべ(まよいごのしるべ)」右側に「志らする方(しらするかた)」
左側に「たづぬる方(たづぬるかた)」との文字が彫られています。
迷子や尋ね人がある人は、特徴(年齢や衣類などを書いた紙)を貼り
思い当たりのある人が迷子や尋ね人を知らせた。
人出があった所にはこのような石碑があったようです。
ここ以外に現存しているのは両国橋、浅草です。
因みに橋の名前漢字は表、かなが裏になります
漢字側が道の入口、かな側が出口です。
又、擬宝珠があるのは日本橋と京橋の2カ所だけです
一石橋は橋の北側に幕府金座御用の後藤庄三郎の屋敷
南側に呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、五斗+五斗で一石の洒落

場所 呉服橋交差点から15m程北側(高速の下)
    それにしても首都高速道路を全ての掘割の上に建設したことは
    江戸の町中景観がだいなしです。
    ようやく首都高速道路地下化工事がはじまりました
    

常盤橋のそばに渋沢栄一の銅像があります





十軒店(じっけんだな)
江戸期この場所に雛人形、端午の節句商品、暮れには破魔矢・羽子板を
扱う店が10件あったそうです。
後に40件ほどになり大変な賑わいだったようです。
明治になり急速に衰えました。
場所 日本橋室町3丁目あたり
    中央通りを北へ(神田方面)へ200mほどの所(三越美術館そば)




長崎屋跡

オランダ商人カピタンは毎年春に20日間長崎屋に宿泊して将軍家へ貿易のお礼に伺った。
献上の商品や持ち帰り品は火事で焼けないように地下室に収めました。
又、年20日の旅籠のほかに輸入薬を扱いかなり繁盛しました。
オランダ商人が宿泊のときには前夜から北・南町奉行所から普請役2名、同心2名警備にあたった。
天文方の役人や欄学者や知識人、お忍びの諸侯や訪れ見物人で大騒ぎだったようです。
シーボルトも泊まっています。
幕末カピタンの江戸参府廃止により廃業に追い込まれます。
天文方は蔵前に有、ヨーロッパに引けをとらないレベルだったそうです。(2・3年前映画になりましたね)
場所 中央通りから「室町3丁目交差点」すぐ江戸通り左側「地下鉄新日本橋駅」のところ




与謝蕪村住い跡
石町の時の鐘跡のところ
場所 中央通りを日本橋より来て「室町3丁目交差点」の一本先の路地角



蛎殻銀座(新銀座) 上記の古地図参照
人形町駅近くの「ちとせや」の前
古地図 星印が現在の人形町交差点あたり
 銀座(銀貨製作所、造幣局)が寛政12年(1800)から明治2年(1869)までの69年間ここに置かれた
 Aは最初の吉原の場所は 明暦3年(1657)までここにあった
 B歌舞伎の市村座  C歌舞伎の中村座 D伝馬町大牢 E北町奉行所(現 東京駅大丸)

この地は江戸三座の中村座、市村座が207年間あった場所
中村座、市村座の向側には人形芝居小屋や小さな芝居小屋が軒を連ね
207年間の内23年間は吉原もすぐそばにあり、当時の絵を見ると大変な
賑わい(デズニーランドのよう)
魚河岸と蛎殻町(現人形町)と吉原は一日に1000両お金が落ちたと言われた
実際には各4000両くらいあったようです
蛎殻町(現人形町)は人形芝居の為の人形製作職人が大勢そばに住んでいたので後に人形町となる
人形製作職人はお土産用の人形も沢山作っていた
(最初の江戸歌舞伎は京橋警察博物館の向かいあたり。猿若勘三郎のちに中村勘三郎に改名))

蛎殻町は銀行(銀貨製作)、大・小芝居小屋、吉原、大牢が混在していた現代人には不思議な場所
それでも何の問題もなく苦情もないやさしい時代


谷崎潤一郎 生誕地
場所 人形町交差点から江戸橋方面へ徒歩2・3分道路の右側


西郷隆盛 屋敷跡
場所 人形町交差点から江戸橋方面へ徒歩3・4分右側 現在は「魚久」


三浦按針住居跡



日本橋三越前中央通りを渡り按針通りの「Daiy」近くです

ターヘル・アナトミア翻訳の地、 慶應義塾発祥の地
中津川藩奥平家 鉄砲洲中屋敷跡。
前野良沢(中津川藩藩医)・杉田玄白(小浜藩藩医)・中川淳庵(小浜藩藩医)がここ
中津川藩奥平家鉄砲洲中屋敷でオランダ語のターヘルアナトミア(解体新書)の翻訳をする。
多少なりともオランダ語が出来たのは前野良沢だけ。
前野良沢を中心にオランダ語のターヘルアナトミアの翻訳をする。
彼等は辞書も殆どない状態で苦心して学術書の翻訳をする。
これが西洋学術書の本格的な翻訳の始まり、これより当時蘭学が盛んになる。
骨ヶ原(千住小塚ヶ原)に死罪になったものを下げ渡してもらい解剖しターヘルアナトミアの正確さに驚く。

1774年(安永3年)解体新書5巻が出来上がった時、杉田玄白が「先生、これを世に出しましょう」
といったが前野良沢は「まだ完全なものではないからダメ」と
杉田玄白は「前野良沢の名前を出さなければ、いいですか」といい、自分達の名前で世に出し
杉田玄白は日本全国から弟子が集まり大先生となり、前野良沢は晩年経済的にも恵まれない。

又、福沢諭吉も中津川藩の下級武士「慶應義塾」はこの地がはじまり。

場所 聖路加病院が当時の中津川藩奥平家 鉄砲洲中屋敷が有った場所。
    「聖路加病院前」の交差点そばに碑があります。 中央区明石町
    営団日比谷線 築地駅徒歩3分。


ツ橋家屋敷跡
御三卿の一ツ橋家、御三卿は御三家に次ぐ家柄。
将軍家から適任の跡継ぎが出せない時は御三家から、次に御三卿から将軍を選ぶ。

田安徳川家・・・始祖は徳川宗武 (八代将軍徳川吉宗の次男)
一ツ橋徳川家・・始祖は徳川宗尹 (八代将軍徳川吉宗の四男)
清水徳川家・・・始祖は徳川重好 (九代将軍徳川家重の次男)

一ツ橋家より慶喜候が徳川家最後の将軍となる。
一ツ橋徳川家は内堀通り「平河門交差点」前、現在の丸紅から気象庁・元東京合同庁舎
あたりまでの広大な屋敷。
右端はナポレオン3世から送られた軍服姿の将軍徳川慶喜候(後に公爵)

因みに、田安徳川家・清水徳川家の屋敷は今の北の丸公園と日本武道館あたり。

最寄り駅 営団東西線竹橋駅 「平川門」交差点近く




ニコライ堂(東京復活大聖堂)
聖ニコライは1861年25歳で領事館司祭として北海道函館村来る。
明治17年から明治24年の間に東京復活大聖堂は建てられました。

場所 JR御茶ノ水駅すぐそば(日立製作所の道路を挟んだ正面)

小栗(忠順ただまさ)上野介生誕地


幕末の幕臣勘定奉行小栗上野介生誕地へ行ってきました
徳川が結んだ不平等条約の為替の不均衡を天秤ばかりとそろばんを持って
不平等を解消したり横須賀の造船所などをつくるなどの天才
徳川幕府崩壊後、薩長により断首される
そこで作られた幕府の軍艦は薩長軍の脅威でしたが戦う前に
大政奉還となる。榎本武揚はその軍艦で北海道へわたり独立国を作ろうとしましたが
国際から認められず軍艦も嵐で沈没し薩長軍に敗れる

場所 お茶の水駅より明治大学通りの坂を下り
写真3・4・7を左折してすぐ
写真4・5・6は御茶ノ水駅前交番に掲載してあった古地図

多くの文士が泊まった近くの「山の上ホテル」に寄ってきました

小栗上野介墓

雑司ヶ谷霊園 解りにくいので霊園事務所で聞いたほうがいいようです

水道橋の碑

徳川幕府を開く際江戸は埋め立てで良い水が出ないため
井の頭を水源とする神田水道を作る
江戸川橋まで引いた上水を江戸川橋から地下水路に
外堀には専用の水道の橋を建設
これが地名水道橋となる
場所 水道橋交差点よりお堀沿いを御茶ノ水駅方向へ「昭和第一高校」前あたり



湯島聖堂
幕府の藩校 昌平坂学問所 孔子像
徳川綱吉時代林羅山の私塾から幕府の藩校
全国から天才秀才が集まった東京大学の前身

会津藩の日新館・米沢藩の興譲館・水戸藩の弘道館・長州藩の明倫館・中津藩の進脩館・佐賀藩の弘道館
熊本藩の藩校時習館・薩摩藩の造士館などが有名です
各藩にそれぞれ藩校があり自分の国の為の教育に熱心だった

場所  JR御茶ノ水駅下車、聖橋を渡ったところ。



神田明神と天野屋

大国主命をおまつり。大野屋1682年創業地下のムロで麹を作り甘酒にする。(今現在の製法は解りません)

場所 湯島聖堂の向かい。

湯島天満宮

  

長谷川平蔵・遠山金四郎 屋敷跡
池波正太郎の鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵屋敷跡。
小説で有名な長谷川平蔵の孫の代に遠山金四郎の屋敷となる。

新大橋通りと三つ目通り交差点角、都営新宿線「菊川駅」がその場所。
上段2枚の写真は「菊川駅」入り口、下の写真は新大橋通りの菊川駅から1つ目の信号機のところ
(丁度ビルの工事で写真を撮るのには残念でした)



五鉄跡

池波正太郎の小説 鬼平犯科帳で平蔵が手下と密談に使ったとされる「五鉄」
写真4の「かど屋」の看板にも同じような事が書いてありました
池波正太郎がよく食事に来ていたらしい
写真4はかど屋 二の橋北交差点から馬車通りを東に1ツ目信号のところ
場所 清澄通りの二の橋脇(二の橋北交差点となり)


堀部安兵衛道場跡

場所 首都高速7号線の下と三つ目通りの交差点を両国方面へ20mほど
東京都墨田区立川3-15-15-6


小林一茶住い跡

写真1小林一茶住い跡 二の橋「五鉄」の反対側
写真3は馬車通りを西に行くといろいろ看板があります

赤目不増尊

鬼門の守り、江戸五色不動の「赤目不動尊」
場所 本駒込駅を出て本郷通を右(巣鴨方面)に60m程

緒方洪庵 お墓(高林寺)

場所 本駒込駅を出て本郷通りを左(水道橋方面)一つ目の信号交差点(下段写真3枚)を左折20m
程の「駒本小学校」の隣

近藤勇終焉の地


斬首されたのは現在JR板橋駅南口前(写真1から7枚)の右前当たりらしい(当時馬捨て場)
近藤勇は流山でとらわれた後板橋本陣に囚われていたようです(8・9枚目写真は本陣跡)
とても見つけにくいので注意してお探しください
写真最後の2枚のスーパー「LIFE」の隣です本屋さんの向い
塀で隠れて見えにくいです
場所は旧中山道「仲宿」あたり。13枚目の写真は旧中山道環7のはいり口、JR板橋駅へ歩きました





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