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薩摩藩蔵屋敷 水野家
三田屋敷
雑魚場跡 増上寺 東禅寺 高輪大木戸 八重洲の由来 四ッ谷大木戸 近藤勇道場
 
黒不動 
元和キリシタン
遺跡
泉岳寺 浅野内匠頭終焉の地 大石内蔵助
切腹の地
オランダ公館跡 歯科医学教育発祥の地 伊皿子貝塚 土蔵相模 佃島渡舟碑 開拓使仮学校跡 
鈴が森刑場跡 島崎藤村
旧居跡
小泉八雲
終焉の地


小泉八雲墓
歌川広重 浅野家鉄砲洲屋敷 赤穂義士休息の地 松陰神社(世田谷 豪徳寺 石川島人足寄せ場  芝大神宮


田町薩摩蔵屋敷跡
西郷隆盛と勝海舟会見の地。
裏の海から米などを直接この蔵に入れられた。

場所 JR田町駅より第一京浜を新橋方面へ50m程。



水野家三田屋敷跡
水野家は徳川家康の実母於大の方の実家で忠之は監物を名乗り第4代岡崎藩主。
岡崎城は徳川家康生誕の城で1725年(享保10年)には八代将軍徳川吉宗の推挙で老中に
抜擢され越前守を名乗る。

忠邦は忠之の4代孫に当たる。
天保の改革を行った忠邦は改革に行き詰まり失脚
町民たちから投石されたりした三田屋敷がここになります。

ちなみに将軍綱吉の生母於国は八百屋の娘「玉
庶民から将軍の側室に大出世したので「玉の輿に乗る」の言葉が生まれる。


水野忠之の時、赤穂浪士事件が起こる。
水野邸へお預けになった赤穂浪士は
神崎与五郎則休・横川勘平宗利・矢頭右衛門七教兼・間重次郎光興・奥田貞右衛門行高
村松三太夫高直・間瀬孫九郎正辰・三村次郎左衛門包常・茅野和助常成
の9人。
岡崎藩主水野監物忠之の屋敷には神崎与五郎ら9人がお預けとなる。
赤穂浪士の仇討が民衆の喝采を受けたのは
当時の五代将軍綱吉(犬公方)などの悪政策の批判の現われでは?
水野家と細川家は浪士たちに対し丁重に扱かった為、民衆の喝采を浴びる。
落書きに
「細川の水の流れは清けれど、ただ大海の沖ぞ濁れる」
細川=越中守綱利
水の=水野越前守
大海=毛利甲斐守
沖=松平壱隠岐守

今は写真にある看板が隠れるようにあるだけ。

場所 JR田町駅西口下車 目の前の第一京浜を横断し正面の路地(慶応通り)に入り
突き当たり薬局の右側。



雑魚場 跡
落語「芝浜の革財布」の舞台になった地。
主人公の設定はここから徒歩15分程の赤羽橋あたりの魚屋としています。
落語「芝浜の革財布」概略
酒飲みで怠け者、ぼてふり(天秤棒を担ぎ売り歩く)の魚屋である主人公がかみさんにケツを叩かれ
魚の買出しに芝浜へ行き50両入った皮財布を拾う。
彼は有頂天になり友達をよび飲めや歌えの大騒ぎをして寝てしまう。
翌朝起こされ「財布を拾ったのは夢、飲めや歌えの大騒ぎはほんと」とかみさんに云われ愕然となり
心を入れ替え酒をやめ一生懸命働くようになる。
やがて赤羽橋に店を構え使用人を使えるようになったとき、財布を拾ったのは本当だったとかみさんに打ち明けられる。
叩かれても離縁されてもいいという、かみさんに「俺は日本一のかみさんを持った」と喜び。
「今日は目出度いから飲んでおくれ」と出す酒を「・・・おっとやめとこう、夢になるといけねえ」との落ち。

雑魚場と金杉橋は当時将軍家「御菜」の上納が許されていて江戸44浦の羨望の的でした。
今の海岸線は埋め立てで遥か先、現在では当時の面影はまったく有りません。

この地に新しく「高輪ゲートウエイ駅」が建設されたため写真のものはたぶんなくなったと思います
(駅名を付けるのであれば「芝浜」以外にはありえないのに)

場所 西郷・勝会見碑の脇を入ったところ。




三縁山増上寺

将軍家菩提寺、浄土宗大本山
開祖 法然 (親鸞の師)
本尊 阿弥陀如来
経  浄土三部経(阿弥陀経・観無量寿経・無量寿経)
徳川家菩提寺
2代将軍秀忠 6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂
の6将軍の墓

訪れた日は丁度法然上人の「忌日法要」の日
「御忌大会」(ギョキタイエ)でした
「時の鐘」は残念ながら見付けられませんでした



場所 JR浜松町駅より徒歩5,6分。


芝大神宮

め組の喧嘩で有名な芝大神宮です

場所 地下鉄「大門」A6を出て右折(セブンイレブン)
30m程の左側

開拓使仮学校跡(芝公園)
東京プリンスホテル隣の芝公園にある
開拓使仮学校跡です
明治5年 北海道開拓の為の養成所、北海道大学のルーツ





東禅寺
安政5年(1858年)7月、日英通商条約締結。
翌6年イギリス初代公使オルコックがここに駐在、初のイギリス公使宿館となる。
文久元年(1861年)5月28日夜、水戸浪士の襲撃事件。
この時の刀傷が寺の柱に残っているそうです。

場所 JR品川駅より第一京浜を新橋方面に100m程の所に「三徳部品」看板があります
    そこを左折して30m程の突き当たり。




高輪大木戸跡

当時は大木戸側に茶店もあり賑わいもあった。
江戸幕府は「入り鉄砲に出女」の取り締まりや幕府防衛治安の為にあり大木戸では捕り物の袖がらみ
さすまたなどもお置いてありました。
夜四ツ(夜10時)には閉めてしまいます。木戸には大木戸・町木戸・長屋木戸があり大木戸には
番屋があり番太郎がいて実際には不審者以外は通してもらえたようです
長屋木戸などは大家さんが管理していたようです
忠臣蔵の赤穂浪士が吉良邸に討ち入りした際は庶民は赤穂浪人の味方だったため
町木戸を通るさい見て見ぬふりをしたともいわれています

このあたり江戸時代は「車町」という、浮世絵にも牛が描かれている。(左下写真参照)

場所 東禅寺より第一京浜を新橋方面に400m程の第一京浜沿い。
    「ホテル東京」の向かい側。
最寄り駅 都営浅草線「泉岳寺駅」徒歩2分


目黒不動

目黒不動は江戸色不動の一つ(目黒不動・目白不動・目青不動・目赤不動・目黄不動)
目の色が各色になっていて江戸の鬼門に置かれ最後に目黄不動が中央。
目黒不動は歴史が古く創建は平安初期のようです
江戸時代の勤番武士なども訪れていました
黄草紙「金々先生栄花夢」の舞台の場所
2023年3月14日に参拝しました
今年東京の桜は全国トップ、史上最も早い開花でした
私は山手線五反田駅より渋谷駅行き「不動尊前」で降りました



歌川広重住居跡 本名 安藤鉄蔵
絵師 「東海道五十三次」が有名
歌川広重は号で安藤鉄蔵は本名なので安藤広重とはいわない。
場所 JR東京駅八重洲口より八重洲通りを進み3ツ目の信号(左角東日本本店)を
    右折15mほど右側




八重洲の由来 ヤン・ヨーステン(耶揚子を名乗る)
オランダの航海士・貿易家のヤン・ヨーステンは1600年遭難し豊後の国に漂着
家康に気に入られ外国顧問となり堀之内に邸を与えれ日本人と結婚するも
どうしてもオランダに帰りたく試みましたが果たせずあきらめて
日本に帰る途中インドシナで座礁し落命する
写真1・2は八重洲通り中央分離帯にありました(東京駅からまっすぐ60m位)
平和の鐘・キリンの実物大像のそば写真3・4)
写真5の船のモニュメントは1980年オランダ王国政府から送られた
船のモニュメントの場所は丸ビルの南側にありました八重洲はヤン・ヨーステンがなまりその後地名になりました
実際のヤン・ヨーステンの屋敷は内堀通り和田蔵門と鍛冶橋の間位に
あったらしいのですが どんなに探してもそれらしい遺跡は見つかりませんでした
又会津の上屋敷(中屋敷?)9150坪は現在の皇居和田倉噴水公園あたりにあったようです
場所 JR東京駅八重洲口より八重洲通りを進み2ツ目の信号(中央通り)交差点、
    八重洲通り中央分離帯内(キリンのオブジェが目印)
    左から5枚目の写真は丸の内ビルの脇(丸の内ビルの案内嬢に聞けば教えてくれます)

ついでに
1998年丸ビルの建て替えによる解体工事の時に5千数百本の松杭が見つかりました
まだ松の香りがしたそうです その松杭の1本が新丸ビルに展示してありました(2棟ある左側)
もう一つついでに
日比谷公園が首都の中心にある理由
日比谷公園はもともと入江で江戸城の場所は山でした
この山を切り崩した土でこの入江を埋め立て萩毛利藩や佐賀鍋島藩
などの屋敷としました
明治に大名屋敷が廃され更地になり日比谷が原とよばれました
日比谷が原にも官庁の建設が予定されましたがもともと入江で
地盤がゆるいため大きな建物の建築には不向きとされ陸軍練兵場となります
ここも代々木の練兵場(現代々木公園)も風が吹くと大変な砂煙だったようです
その後公園にする案があり何度も公園計画があがりましたが決まりませんでした
明治34年(1901年)ドイツ留学をおえた本田静六を中心に本郷高徳が設計した
公園が明治35年に開園されたました




四ッ谷大木戸跡
新宿通りの四谷4丁目の交差点そばの水道局新宿営業所のところに碑が
ありますが、そこには「実際の大木戸跡はここより80mほど東にありました」
と書いてあるります。
しかし、古地図を見てみると丁度 現水道局の所に大木戸の記述がありました

交差点3隅に碑がありました 交差点を渡り水道局新宿営業所斜め前角のタバコ屋さん前の写真、
交差点をを渡るり2・3件目のモスバーガーの隣にある(蕎麦屋さん?)にある看板

水道局があったのでついでにひとつ江戸の水道の話
日本最古の水道は1590年の小石川水道(大洗堰 現 新江戸川公園)
18世紀初頭江戸の水道は150Kmで世界最大 第2位がロンドン50Km
又都市人口 江戸100万人 第2位ロンドン50万人(文政には江戸120万人ロンドン70万人)
江戸は世界最大の都市であり世界最大の水道設備です
石管・木官を地下に張り巡らし溜まり設備に井戸のような桶を地上に設置して使用。
江戸は殆どが埋め立ての為井戸で清潔な水が出なかったのとほかに日本人の清潔好きが
あったようで清潔な水が必要な国民性のようです。
先日NHKの番組でパリに嫁いだ日本女性の暮らしを放送で
夫が毎日風呂に入らず髪は1週間も洗わず困ると、夫の母も同じで街に出ていろいろな人に
聞いても「そんなのあたりまえでしょう」と言われていました。日本人のほうが世界で珍しいようです。
江戸6水道
神田水道・玉川水道・青山水道・三田水道・亀有水道・千川水道
なかでも神田水道・玉川水道が2大水道



島崎藤村 旧居跡

島崎藤村は1905年4月から1906年10月までこの地で暮らす
場所 
明治通りと職安通りとの交差点(新宿7丁目)より
大久保通りを西(中野方面)へ10m程の道沿い左側

地下鉄「東新宿」駅A1を出て左へすぐ




小泉八雲終焉の地

場所 明治通りと職安通りとの交差点(新宿7丁目)より
職安通りを西(中野方面)へ進み1つ目の信号(鬼王神社前)の10mほど先に
「エスプラザ」があります。「エスプラザ」の角の路地を右に入り20m程

小泉八雲墓
雑司ヶ谷霊園 解りにくいので霊園事務所で聞いたほうがいいようです



松陰神社
写真@世田谷通りの「松陰神社入口の信号機」A東急世田谷線「松陰神社前駅」
B5枚目から10枚目までは松下村塾のレプリカC11枚目から13枚目「松陰お墓」



豪徳寺(井伊家菩提寺)
彦根藩井伊家の菩提寺11枚目は井伊直弼のお墓
招き猫の発祥地
たしか、井伊家の殿様行列が豪徳寺の前を通りかかると猫がおいでおいでをしたので
ここでここで休憩をすると突然豪雨、猫に助けられたとのお話
私は世田谷通りの「上町」で小田急バスを降り世田谷線の「上町」駅脇の線路をわたり
そのまままっすぐ10分ほど歩きました



近藤勇の墓

場所 
三鷹市大沢6丁目3−11
人見街道沿い
JR三鷹駅よりバス「龍源寺」で降りました
道場は龍源寺の向かいにあったようです
勇はたしか近藤家の養子だったのでここが誕生の地ではないのでは?
2023年3月22日、東京は最も早い桜開花宣言 桜の写真は近くの多摩霊園の桜です


元和キリシタン遺跡
ここは芝高輪刑場の地と思われます
江戸の刑場は規模も大きく有名な小塚原刑場(骨ヶ原)と鈴が森刑場のほかに
芝高輪刑場・浅草鳥越刑場・板橋刑場・八王子大和田刑場とあったようです(大和田橋近くホテルニューグランドの前)
芝高輪刑場は後に鈴が森刑場に移転、そばの第一京浜では事故が絶えないそうです
八王子大和田刑場があった20号線の大和田橋でも事故が多いそうです
板橋刑場は近藤勇が処刑されました
三田3−6 JR田町駅より第1京浜を品川方面に4、5分歩くと茶色の高層ビルが見えてきます。
写真1の茶色い大きなビルの玄関前を通り抜けた裏の岡の中腹にあります。
この岡に有る歩道用のエレベーターに乗って上の道に出て左にちょっと歩くと最初のフランス公使宿館
済海寺があります。

下の写真は最初のフランス公使宿館



泉岳寺

浅野内匠頭他 四十七士の墓。
一年中多くのお線香が耐えないそうです
(ご近所は結構迷惑しているとか・・・)

最寄り駅 都営浅草線「泉岳寺駅」徒歩2分。
品川駅から来て第一京浜「泉岳寺」交差点より左折100m程




浅野内匠頭 終焉の地(田村屋敷跡)
浅野内匠頭が切腹したところ。
辞世の句
「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残を如何にとやせん」
石碑のところに桜の木が有ります。
この桜だけ毎年、周辺の桜が花をつける前に一本だけいち早く花を付けます。
この写真は2005年4月1日に撮影しましたが他の桜はまだ花を付けていませんでした。
2005年の桜開花日は3月31日、殆どの桜の木は蕾ですが、この桜の木だけ6分咲き位でした。
何か不思議な気がします。(写真5枚目)
写真4枚目「紀元2600年建之」とあります、紀元2600年というと昭和15年でしょうか、
この年に自刃240年とありますので、304年前に浅野内匠頭がここで腹を切らされたのでしょう。
場所 港区新橋4丁目31番地あたり
    日比谷通り「新橋4」交差点角
    都営三田線「御成門駅」下車徒歩2分・JR新橋駅より徒歩7分




浅野家屋敷跡
浅野家鉄砲洲屋敷 現聖路加病院敷地一帯
本所吉良上野介を討ち取り、赤穂義士47士はこの浅野家の前を通り泉岳寺まで行ったようです
場所 現聖路加病院
    碑は聖路加看護大学の裏 聖ルカ通り築地公園信号の角



赤穂義士休息の地
吉良邸討ち入り後、向回院に集まる予定でしたが
向回院では大勢血だらけの火事場装束で現れたのを見、驚いて入ることを断ったため
急遽、大高源吾の俳諧友人である竹口作兵衛が営む、この地の乳熊味噌(現ちくま味噌)に集合した
そして
永代橋を渡り今度は隅田川の西側を進み鉄砲洲の浅野家中屋敷前(現聖路加病院)を通り
仙台藩上屋敷で休息(粥のもてなしを受け)し泉岳寺に至

場所 永代橋東詰の交番より佐賀河岸通りを15m程




大石内蔵助切腹の地
大石内蔵助の辞世の句
「あらうれし心ははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」
細川藩中屋敷(看板には下屋敷と有りますが古地図には中屋敷と有ります?)
因みに大石力切腹の地は現イタリア大使館敷地内
場所 泉岳寺より坂を上り伊皿子交差点を左折、松島屋を過ぎ高輪中学校高校の向かいに碑があります
    さらにに進み左にある交番の20m程先を右折 現「高輪支所」あたりにも写真上段の場所がありました
    現、都営高輪住宅(下段2枚目)は旧細川中屋敷の一部
    



佃島渡船碑
小説中のさぶはここから人足寄せ場の栄治にに会いに行ったのでしょう
昭和41年(1966)に廃止
場所 佃大橋通りを新富町方面から進み佃大橋手前岸道の左側、隅田川テラス入り口前



石川島人足寄せ場
山本周五郎の「さぶ」の舞台となった石川島人足寄せ場


上段1の写真は隅田川の対岸から見た石川島人足寄せ場跡
写真2は人足寄せ場の灯台(復元、下部が公衆トイレになっているのが悲しい)
最後の2枚は劇作家北条秀司と新派俳優花柳章太郎の碑
下段は天保年間創業の佃煮屋さん(佃煮うまかった)

後に水戸藩がこの地で日本初の蒸気船を製造
明治9年(1876)石川島播磨重工業(IHI)」はこの島で操業を開始、現在は高層マンションと公園

場所 佃大橋の隣



オランダ公館跡
場所 泉岳寺のそば。泉岳寺の信号から坂を20m程上ったところ。
小さい標識なので見落としそう。



歯科医学教育発祥の地
場所 オランダ公館跡からさらに坂を上り「伊皿子交差点」のところ。




伊皿子貝塚古墳
場所 「歯科医学教育発祥の地」を右折して20m程。



土蔵相模八つ山の桜
高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文などがよく使ったところ。
英国公使館焼討事件は土蔵相模から現第一京浜を渡った所。
今はミヤンマー大使館・原美術館などがあります。
このあたり江戸時代、桜の名所(八つ山の桜)当時は花見で賑わったようです。
墨田川土手・飛鳥山・八つ山(当時はこの3箇所が花見のメッカ)
徳川吉宗が植えさせたのが始まりのようです。
2,3年前まで「八つ山の桜」はミヤンマー大使館前の小道に太くて大きい物が見事な桜のトンネル
を作っていて、花見客も人通りもない絶好の場所でしたが現在はだいぶ切ってしまったようです。(スゴクザンネン)
後日確認して来たいと思います。
3月29日「八つ山の桜」行ってみました。惨憺たる状態でした。
残っているのは数本・・・2,3年前まで見事だったのに・・・400年程続いた「八つ山の桜」は思い出となり
過去の歴史と消えました。
場所 JR品川より京浜急行で一つ目の「北品川駅」下車。
踏み切りを渡り「北品川商店街」へ出たところ現ファミリーマート(駅より1分)

この浮世絵は江戸時代さくらで有名な八つ山(御殿山)
文久2年(1863)攘夷派により英国公使館 焼き討ち事件のあった場所
今はミャンマー大使館や原美術館があります




鈴が森刑場 
八百屋お七や天一坊など芝居で有名な人物か処刑された場所。
「八百屋お七」概略
井原西鶴の「好色五人女」では
本郷追分町に山瀬太郎兵衛という八百屋を営む夫婦、子供がないので谷中感広寺の「七面大明神」に
願かけし授かった女の子に七面さまの七で「お七」と名づける、やっと出来た子供でわりと裕福な為
おんぼ日傘でお七を育てる。
天和元年(1681年)11月お七15歳のとき本郷丸山町で火事があり八百屋太郎兵衛の家も全焼する。
一家は家が出来るまで駒込の吉祥寺に避難し、ここで美少年「寺小姓吉三郎」と「お七」は恋に落ちる。
やがてお七の家が出来、お七は泣き泣き追分町にへ帰るが吉三郎を一途に思いつめたお七は
もう一度火事になれば吉三郎に会えると自分の家に放火してしまう。
これが本所から日本橋、霊岸島まで焼き尽くした天和2年の大火となりお七は逮捕される。
当時の法律で放火は死罪(火焙りの刑)ただその頃も少年法で15歳以下は罪一等減じられ死罪にならない。
時の町奉行が哀れに思い「お前は15歳だな」と水を向ける お七は「丙午の16歳です」と
言い張り16歳との証拠もでて鈴が森で生きたまま火焙りの刑となる。

はっきりしたことは解りませんが、火事で家が出来るまで避難した寺は小石川の円乗寺。
恋をした相手は吉原がよいで勘当された寺小姓山田佐兵衛20歳
吉三郎は吉祥寺の門番で性悪男。
吉三郎は火事場泥棒を計画し火事になれば「佐兵衛に逢えるぞ」と お七をそそのかし放火させた。
その時の火事はボヤ、お七 放火の疑いで逮捕、吉三郎も火事場泥棒で逮捕され子悪党の手口をよく知っている町奉行
「北条安房氏平」に「火付け犯人は吉三郎」と決めつけられる。
吉三郎は「お七をだまし放火させた」お七が放火犯と訴える。
お七が16歳の証拠もあげ(谷中感応院に本郷お七、10歳、延宝4年春、額奉納)
結局お七は鈴が森で火焙りの刑となる。
(この辺が本当の事に近いようです)
お七が処刑されされてから5,6年後、元禄の頃から「ヒノエウマの女は火のように強く男を食い殺す」
との迷信が出来上がり現代でもうま歳の女性の出生率が低い。

左から2枚目の写真は火焙りの為の鉄棒を立てた石。
場所 
JR品川より京浜急行で6つ目の「大森海岸駅」下車。
第一京浜を東京方面(品川方面)へ50mほど行き、高速道路をくぐるり右側の「天竜交通」「大経寺」の前。 




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